平成2年(第72回)の夏の甲子園、西日本短大付―桜井の試合中に話は移っていた。
スタートで応援の流れを掴み損ねた。2回表には西日本短大付が先制。まだ1点だ。この時はそう思っていた。
2回裏の桜井の攻撃でこの試合での応援を象徴する様な出来事があった。
個人ごとの応援ソングについて、4番打者では『必殺仕事人のテーマ』と決めていた。『必殺仕事人のテーマ』なので当然トランペットのソロから入る。ソロをするのは学校のイベントなどでソロ演奏をやりまくり、女子人気も高いMだった。
このMがおもいっきり音を外した。しかも演奏が少し止まってしまった。アルプススタンドは笑い声に包まれた。こうなっては応援という空気にならない。
まったく締まりのない演奏になってしまった。
試合の方は毎回1点ずつ取られるという真綿で首を絞められる様な展開になった。嫌な雰囲気の時は雰囲気を変える様に県大会では私が努力するか、Massa氏が空気を読まないで曲をセレクトしていた。しかしこの日は違っていた。「打順で個人ごとの応援ソングを決める」など中途半端にパターン化したことによって、演奏が形に縛られた。イニングの合間の演奏も、事前にだいたいレパートリーを絞っているし、この日の指揮者はチャッピー先輩なのでそこから逸脱することはない。空気は変わらない。
何より感じたのは、マウンドやバッターボックスまで音が届いていない様な距離感だった。正直言って、甲子園の応援について知らなさすぎた。
7年ぶりの甲子園、7年前の事を知っている者は少ない。先生方などは話を聞いたのだろうが、本当はそういう話を聞くべきだったのは私やMassa氏など、実際に応援の中心となっているメンバーだったのではないか?イメージの出来ないままの応援になってしまった。
6回だったと思う。イニングの合間に演奏した曲は『VACATION』。私は「これだけ負けてて何が『VACATION』だ」と思ってしまった。心が折れてしまった。
甲子園では時々、スタンドの空気が試合の流れを左右することがある。アルプススタンドの応援が大逆転のドラマを演出することがある。ただそれは、アルプススタンドが勝負を諦めていないからこそ起きる現象である。
県大会の準決勝や決勝で書いたが、ある意味桜井の応援演奏の中心だった私の心が折れたのは、その可能性が完全に消えたことを現している。
試合は本当に9回まで1点ずつ失点し、8―0で西日本短大付が勝利した。桜井は3安打完封を食らった。何か呆然としたような気持ちになっていた。
実は私の心が折れる前に新聞社から取材を受けていた。しかし掲載されることはなかった。というのもこの日の試合は凄い試合ばかりだった。書き出すと
第1試合 秋田経法大付3―2育英(延長13回サヨナラ)
第2試合 西日本短大付8―0桜井
第3試合 山陽5―4葛生(9回2アウトから4点差をひっくり返しサヨナラ)
第4試合 星林5―4中標津(延長10回サヨナラ)
である。マスコミにとれば何のドラマもない第2試合は報道価値が低いわけだから、さらに報道価値が低い応援など報道するわけがないのだから。
こうして甲子園での応援は終わっていった。
余談ながら、時代もあり桜井高校には多額の寄付が集まった。これまた野球部父母会の意向もあり、吹奏楽部はかなり楽器を買ってもらえた。これまで演奏の度にレンタルしていたティンパニは自前のものになったし、私が使用するチューバはロータリーバルブのものを購入してもらえた。
なお、余談ながら宗一郎は再び部外者に戻ったので、私1人に楽器が4台という状態になった(笑)
もっと余談をいえば、吹奏楽部の女子と野球部員が交際するというパターンが増え、部室で姿を見かけなくなった女子もいた(笑)
高校2年の話が長くなったが、甲子園の応援で私の高校での野球応援が終わったわけではない。高校3年の夏に話を移そう。
高校3年の夏、過去は野球部の応援に参加しない事が多かった。ただ自分達の年代はほとんどが参加した。理由としては、自分達の先輩達の時代は3年生になると大きな区切りもなく、それぞれがそれぞれのタイミングで引退していた。(大きな区切りがないのは私が所属していた頃の桜井高校吹奏楽部は、コンクールにも出ず、演奏会も行っていない同好会的な部活だったからである)しかし自分達が3年の時に第1回の定期演奏会(第1回なのに“定期”演奏会と銘打って開催した(笑))を開催することとなり、コンクールに出ない部ということもあり、7月下旬の開催となった。
コレやgetzenはこちらの方に気合いが入っていた。まあその話は今回どうでもいい話であって、重要なのは自分達の引退が必然的に7月下旬まで伸びたということだった。
それはイコール、高校3年の夏も高校野球の応援に参加する、ということでもあった。
(続く)