この解釈の違いについて、私は後者が正しいと思っている。前者の場合だと、【天下の恥】城長茂は【落馬】源頼朝がせっかく許可したものを断った事になる。ただ不敬を働いた話になる。
これが後者だと、【天下の恥】長茂は囚人という立場を考え、自らの旗印の使用を控えようという事で【落馬】頼朝の旗印の借用を求めた事になる。勿論【落馬】頼朝の旗印に恥じない活躍を期しての事であろう。そこで【落馬】頼朝は【天下の恥】長茂に自らの旗印の使用を認めたという事になる。こうなれば【天下の恥】長茂は御家人として認められた事になる。【落馬】頼朝の度量を認めたエピソードとなると思われる。

原文が漢文なので読み下し方で伝わる内容が変わってくる。二次資料しか読めない(読む能力がない)我々素人は、やはり複数の資料にあたった上で、自分なりの考察をするのが正しいようだ。

話は戻って、【天下の恥】長茂は
「この旗印を見て、散り散りになった家来達が再び集まってくるだろう」
と言ったという。苦汁をなめた者だけがわかる言葉である。『吾妻鏡』はスルーしているが、スタートで苦汁をなめた【落馬】頼朝は、【天下の恥】長茂の発言に思うところがあっただろう。

そして出陣式が始まった。先陣は【武士の鑑】畠山重忠。続いて【落馬】頼朝、以下諸将といった具合だ。諸将の名を書き連ねてもしょうがないのでここは省略しておく(笑)
とにかく、1189年7月19日、【落馬】頼朝は出陣した訳である。

25日、【落馬】頼朝は宇都宮に到着した。出陣から6日で宇都宮というのは若干遅い様な気がするが、武蔵や下野の武士が道中合流する事を考えるとこんなもんだろう。
【落馬】頼朝は二荒山神社に参詣後、宿舎に入った。二荒山神社には東国を鎮めた神が奉られているので【落馬】頼朝にとれば見逃せない場所だろう。とにかく祈祷等の話が多い。
宿舎に【後妻のおかげ】小山政光(後妻が【落馬】頼朝の乳母で、【後妻のおかげ】政光が不在中に【落馬】頼朝に一族を連れ味方したので命名。なお【義母は乳母】小山朝政や【乳母子】結城朝光は【後妻のおかげ】政光の子になる)に弁当を差し入れた。この時【落馬】頼朝の前には【蓮生】熊谷直実が控えていた。【後妻のおかげ】政光が【落馬】頼朝に
「前に控えているのは誰ですか?」
と尋ねると
「彼は、日本でも比類なき勇将の【蓮生】熊谷直実だ」
と【落馬】頼朝が紹介した。
「どうして【蓮生】直実は比類なき勇将という称号を与えられたのですか?」
「平家討伐の一ノ谷の戦いで、【蓮生】直実親子は何度も命を省みず攻め立てたからだよ」
という【落馬】頼朝に対し【後妻のおかげ】政光は大笑いして
「主君の為に命を捨てるのは勇士ならば心がける事、【蓮生】直実に限った話ではありませぬ。ただし【蓮生】直実の様に家来のいない者は自らが戦って名をあげねばなりませぬ。私(【後妻のおかげ】政光)のような大名は、家来達を働かせて手柄を立てればよいのです。そういう事ならば、今度の戦では自ら戦ってその勇名を得なさい」
と息子達に言い渡した。

言うなれば大名と小勢力の武士の違いを表した話だが、私はこの話を読んで【後妻のおかげ】政光に虫酸が走った。大名かもしれないが、この人間は後妻と息子のおかげで今がある。命を張って戦う者を笑うようでは程度が知れる。これでは【蓮生】直実が不憫である。
【後妻のおかげ】政光が笑わずに同じ事を言ったならば、良い話だと思うのだが。

(続く)