洋楽化石人類 フィービ・スノウ(Phoebe Snow)の巻

 第22回はフィービ・スノウ(Phoebe Snow)です。1974年のデビューアルバム「Phoebe Snow」の日本発売盤のタイトルにつけられていた彼女のキャッチコピーは、「ブルースの妖精」。黒人音楽が発祥で、人生のやり場のない怒りや哀しみを絞り出すように歌うブルースと、おとぎ話やディズニー映画に登場する浮世離れした存在の妖精。その二つがどこでどうやって結びつくのか、当時は不可解でした。彼女が4オクターブの声域を持つと言われていたことが、5オクターブとも5オクターブ半とも言われたミニー・リパートン(Minnie Riperton/第13回でご紹介)を連想させて、「妖精」に結びついたのでしょうか?
 しかし、彼女の音楽の世界を「ブルース」「R&B」のカテゴリーの中だけで説明するのはちょっと無理でしょう。「黒人女性シンガーソングライター」というくくりで言うならロバータ・フラック(Roberta Flack)にもまさるとも劣らぬ、才能にあふれた人でした。それは1975年の最大のヒット曲「ポエトリー・マン(Poetry Man)」を聴いてみればおわかりになると思います。
 この曲は日本の洋楽ファンの間でも、たとえばジャニス・イアン(Janis Ian)やキャロル・キング(Carole King)やジョニ・ミッチェル(Joni Mitchell)をよく聴いていたような人たちにも評判がよかったといいます。本当にいい曲は、ジャンルを超えて支持されます。当時、この曲の歌詞に出てくる「詩人」とはジャクソン・ブラウン(Jackson Browne)だという話が、まことしやかに流れていました。彼が作詞したイーグルス(Eagles)の「テイク・イット・イージー(Take it easy)」がヒットした、少し後の頃のお話です。
 バイオグラフィーをご紹介しますと、1950年、ニューヨーク・マンハッタン生まれ。ニュージャージー(New Jersey)州育ち。両親は若い頃はショービジネスの世界で活躍した人だったそうです。60年代末、10代の頃に当時はまだ「芸術家の街」だったグリニッジ・ヴィレッジ(Greenwich Village)のクラブを回ってギターの弾き語り。いつしか「フィービ・スノウ」と名乗ります。芸名の由来は19世紀の鉄道会社のポスターに描かれたおてんば娘の名前で、スノッブで斜に構えたグリニッジ・ヴィレッジの住人たちにはウケて、かわいがられたでしょうか?
 そこでレコード会社の偉いさんに見出されてプロとして契約し、1974年にデビュー。翌年、ファーストシングル「ポエトリー・マン」が全米5位になり、一躍その名をひろく知られます。同じ年、あのポール・サイモン(Paul Simon)とデュエットし、新人ながらも連名で出したシングル「哀しみにさようなら(Gone at Last)」も全米23位に入りました。ファーストアルバムはミリオンセラーになり、グラミー賞(Grammy Awards)の最優秀新人賞(Best New Artist)候補にもノミネートされて、1975年はまさに輝かしい年になりました。
 ちなみにグラミー最優秀新人賞は後に映画音楽の作曲家として名を成したマーヴィン・ハムリッシュ(Marvin Hamlisch)に譲りましたが、翌1976年に「哀しみにさようなら」が収録されたポール・サイモンのアルバム「時の流れに(Still Crazy After All These Years)」がグラミー賞最優秀アルバム賞を受賞しています。
 モータウンやフィラデルフィアを「ブラックミュージックの本流」とするなら、フィービ・スノウはそこからやや離れた場所にいて、70年代前半のシンガーソングライター・ブームの流れに沿ったようなプロモーションでした。彼女の出生地もハーレム(Herlem)ではなくローワー・マンハッタンの複雑怪奇地下鉄駅チェンバーズ・ストリート(Chambers St.)の近くで、リトル・イタリーやチャイナタウンもすぐそばにある古い移民街。しかも人種的には黒人とユダヤ系のハーフです。黒人と白人のハーフと言えば2012年に亡くなったエタ・ジェイムズ(Etta James)もそうでしたが、こちらはブルース、R&Bの本流を歩んでいました。70年代のフィービ・スノウはむしろポール・サイモン、ジャクソン・ブラウン、「LAの歌姫」ことリンダ・ロンシュタット(Linda Ronstadt)など白人のアーチストとコラボレーションすることが多く、1976年にはビートルズ(The Beatles)の「Don't Let Me Down」をカヴァーしています。
 そのように、ブラックミュージックの枠を超えて華々しく登場したフィービ・スノウでしたが、短い結婚生活があり「我が人生最良の年」の1975年の12月に誕生した長女ヴァレリー・ローズ(Valerie Rose)が、彼女のその後の運命を変えることになります。長女は生まれながらに脳障害を負っていましたが、フィービ・スノウは施設に預けたらどうかという周囲の勧めを断って、母親の自分が自宅で養育する道を選びます。
 でも、音楽活動との両立はやはり負担になったようで、アルバムを出してもセールスは下降線。80年代になるとCM音楽の仕事などを細々と手がけるだけで、半ば忘れられた存在になっていきます。90年代以降は「再発見」され、彼女の才能をリスペクトするさまざまなアーチストと共演していますが、もはや70年代の輝きを取り戻すことはできませんでした。
 2007年3月、長女のヴァレリー・ローズは母親の愛に包まれながら31歳でこの世を去ります。「もし私が死んだら、この子はどうなるの?」という心配はそんな形で終わりましたが、自身も病気がちだったフィービ・スノウは、娘さんの後を追うかのように3年後の2010年1月に脳出血で倒れ、2011年4月に亡くなりました。まだ60歳でした。
 この母と娘の物語について他人が「娘さんの養育のために、恵まれていた音楽の才能を十分に発揮できなかった」と言うのはたやすいことですが、ミュージシャンとしては不運でも、わが子にその愛を捧げ、身体が不自由な娘さんの一生を最後まで見届けることができて、一人の母親としては幸せだったかもしれません。
 2016年5月28日 寺尾淳

YouTube - Phoebe Snow Poetry Man Live 1975

YouTube - Phoebe Snow Poetry Don't let me down

YouTube - Paul Simon and Phoebe Snow Gone at Last (with Jessy Dixon Singers)

 次回は「リンジー・ディ・ポール(Lynsey De Paul)の巻」です。UKのウィスパー・ヴォイスの麗人。お楽しみに。