潤ノ助がお空にのぼった日のこと。
なかなか書けずにいました。
書いては消したり、書けなくなったり。
でも、何かもしかしたらみんなが知っていて予防できる事もあるかなとか
私なりに考えて、書いてみる事にしました。
前日の夜はいつもとかわらずでした。
その日の朝も、朝起きて体位変換して。
私とは逆側を向かせてすぐ左隣で寝ていました。
ハンゾウは起きていたので私の右側でごろごろしながら朝のテレビをみてました。
いつも夜中や朝に潤ノ助がちゃんと呼吸をしているか確かめる癖がありました。
なんか嫌な予感がして、背中で呼吸を確認して、でも背中につけた手で呼吸を感じられなくて
すぐに抱き上げましたが潤ノ助はぐったりしてました。
何も出来ず、抱きかかえることしかできず
なんとか救急車を呼び
人工呼吸と心臓マッサージをしましたが、うまくできず。
とにかくパニック。
救急車と消防車のサイレンがうちに近づいて
いつもの病院へ搬送してもらいました。
救急車の中ではマッサージと人工呼吸で呼吸が戻ったようにも見えたり
病院に着き、救急室での処置。
とにかくながく待ちました。
いつも3人でぴったりくっついて寝ていて、その日もくっついて寝てたのに
きっとあと5分早く抱っこして起こしていたら。
もしその日仕事だったらもっともっと早く起こして一緒に仕事に行ってたのに。
そんな思いがあの時も今も変わらずあります。
とにかく長い時間待ち、
病棟へ行きますという案内がありました。
潤ノ助はまた呼吸器をつけ目には保湿のクリームを塗って点滴とモニターと。
1年前に同じ光景を見ているので、少しほっとしました。でもあの時とはまた少し違いました。
潤ノ助の意識がなかったことかな。目を見てわかりました。
でも、朝起きたとき、もうだめだと想ったので、その場にまだいてくれた事が奇跡のように想いました。
私が気づくまで、きっと5分くらい、そして救急車が車で、きっと5分以上、そして病院に着くまで、きっと5分くらい。
15分以上心肺停止状態でした、先生も驚いてました。
そんな中、呼吸器の力を借りながらも自発呼吸も出ていて、心臓も安定していると言われました。
もしかしたら、時間はかかっても呼吸器が外れるかも。まだまだ私の側にいてくれるんだなと想ってました。意識だって戻るかもしれないと想いました。
この近所の大学病院はICUのない病院なので、転院の話をされました。ずっと見てもらった病院で私たちが転院したくない事は先生達もわかってました。その上での話で、転院先を探すことになり。
小児のICUがあり、近隣の病院は限られていました。松戸の病院は24時間完全付き添いで、何ヶ月かの長期的な入院を覚悟していたので、片道1時間の病院での24時間付き添いは不可能かなと考え、一度受け入れてもらえると返事をもらってましたが、せめて短時間だけでも付き添いが抜ける時間があっても大丈夫な病院をさがいてもらうことにして。
呼吸器をつけたままなので、また生活はかわるなー。とか。
新しい病院で1からはじめるんだなー。とか。
でも、私の腕に中で呼吸をしていなかった潤ノ助がまだまだ一緒にいてくれる。してあげられることがたくさんあると想うだけでも、ただただよかったと想ってました。
お昼くらいだったかな。
もし松戸の病院で決めていたらもう救急車だったかもしれません。
先生が温かいお茶とキャラメルを差し入れしてくれて
少し落ち着いてて
家族も家に戻って
それから何分かして
また先生がバタバタし始めて
私は病室を出され
主治医から、心臓の状態があまりよくないと言われました。心臓が疲れてしまったんだと言われました。延命処置をどこまでするのかを決めてもらわなければならないと言われました。
急いで家族を呼び戻しました。
でも、その頃には既に心臓マッサージが始まり、その中でこのまま続けるかどうかを決めてもらわなければならないと言われ
さっきまで転院先を考えて、いろいろ大変だけどまだまだ一緒に居れるなー。抱っこできるんだなーなんて安心してたのに。
小さく細い身体への心臓マッサージはテレビでみるようなものとは違い
見てられるようなものではありませんでした。
もう辞めてほしい。ただそう想いました。胃からの出血もひどく、もうがんばらなくていいかなと想いました。
涙を流しながらマッサージをしてくれた先生。今までたくさんがんばってきた潤ノ助。最後ににまた頑張らせてしまったな。
それから。潤ノ助は私たちにお別れの時間をくれました。
朝、もし自宅で亡くなっていたら、ゆっくり抱っこする事もできず、警察が入る事になったんだと想います。私の自分勝手な解釈だったかもしれないけど、夕方までの数時間、みんなの腕の中でがんばってくれました。
治療をやめてから、もしかしたらまた元気になるんじゃないかな?って想うくらい頑張ってくれました。家族、大好きな先生達、看護師さんたちに囲まれて最後の時間を迎えました。
機械を外してもらって、身体もお顔もきれいにしてもらった潤ノ助は、いつもの笑顔で、心臓が動いてないなんて想えないくらいかわいい顔でした。
最初の入院からずっと助けてくれた仲良しの大好きな看護師さんにかわいいかわいい笑顔にしてもらいました。
病院側からの解剖の話、アイバンクの話などありました。解剖もしたくない。アイバンクもこれ以上辛い思いをさせたくない事と残り少ない時間を離れて過ごすのはとても出来なかったのでお断りしました。
これもまたテレビドラマや報道とはかけ離れた、考える時間もないくらい答えは決まってたように想います。
原因は完全に突き止める事は出来ず。不整脈と心筋梗塞が原因と書類には記してあります。
てんかん発作が直接原因ではないこと。前から先生にも言われていたけど、てんかん発作で呼吸が止まる事はないみたいです。
去年の肺炎での一件から低緊張になり、寝る時間が多くなり、食事も経管栄養になり、吸引も多くなってました。入院は最近少なく毎日アクティブに過ごしていました。
今想うと、今写真を見返すと少し疲れていたのかなとか想ったりします。
霊安室に行き、先生や看護師さんにもお別れをしてもらい、自宅に帰りました。
お通夜の前に1日時間をもらう事が出来、葬儀も自宅で出来ることになりました。
うちを出る日まで添い寝が出来て良かった。眠る顔は天使のようにかわいく、いつもと変わらず、このままずっと家に居てほしいって想いました。
でも告別式の日には潤ノ助の顔は少しつかれていて、もう一緒にはいれないんだなって想いました。そんな事を考えられるくらい、ゆっくりと家で過ごす時間があったことが本当によかったなと想います。
翌日は朝からお友達がたくさんきてくれました。先生もきてくれました。
みんな、泣きながらも潤ノ助があまりに笑顔でしあわせそうなので笑ってました。それくらい最後まで潤ノ助らしくみんなを癒してくれました。
お通夜も真夜中までお友達がきてくれて、夜中には親友のパパにずーっといいこいいこされてました。
告別式もみんなに会いにきてもらい、たくさんのお花に囲まれて、お花屋さんのお友達が世界一かわいい天使になるようにと赤やオレンジや黄色の温かいお花とたくさんのひまわりを用意してくれて、
お空とおうちとのフリーパスをもって行きました。
潤ノ助のかわいい小さな身体の中にあった骨は、想像以上に細く小さく、普通の子よりとにかく小さかったのは、たくさん病気と闘ってきたからだなとせつなくもなりました。かわいいちいさなお骨を見たとき、私が考える以上に潤ノ助は大変な5年間を生き抜いたんだなと想いました。
もう治療、薬、発作から解放されるのはほんとうによかったなと想いました。
まだまだたくさんしたかったこともあります。
潤ノ助5歳ハンゾウ3歳の七五三の写真も早くに撮ればよかったな。
とにかく悔やまれる事ばかりで、寂しくない日なんてありません。
でも私の中に潤ノ助がいるなーって自然に幸せな時もあります。
なんでいないのか理解できない時もあります。
きっとそれはずっとそのままかな。
でも、あの子が残して行ったたくさんの思い出とたくさんの絆とたくさんの課題とたくさんの優しさは本当に本当にどっしりと残ってます。
もし、あの日潤ノ助が居なくなることがわかっていたら、もっともっとたくさんの事をして毎日過ごしたかな?と考えたりしたけど、もしわかっていたら悲しくて辛くて切なくて泣いてないて過ごしたと想います。
前日まで笑顔で楽しく過ごせた事がほんとうにありがたいなと想います。
そして、しっかりとお別れが出来た事。たくさん考える時間があったことも本当に幸せな事だったなと想います。
潤ノ助の偉大さに埋もれてしまいそうなこともありますが、やっぱりあの子の母親として恥ずかしくないように生きて行きたいなと想ったリもします。
また書きます。