今日は2本、スポーツ・アスリートにまつわる作品を鑑賞。この作品、ポスターのトーニャ・ハーディング役マーゴット・ロビーの太々しい態度が、トーニャの先入観を植え付ける。それでなくても、物議を醸した事件だから、本当の真実よりも、彼女へのダーティーなイメージが先行する。だから果たして、どんなトンデモない女なのか?そんな事ばかりに興味が向けられる。
話が始まると、彼女のオリンピック・スケーターとは思えないような過酷な人生を送っていた。母親の愛情が、全くない。それは、病的と言えるかもしれない。他人の方が、まだマシだ。そんな環境でスケートを始めるが、決して彼女の天性を信じて始めさせたようには思えない。そこに、唯一、母親が娘にかける希望のようなものを感じさせる。後は、母娘のあるべき姿は、皆無だ。逆に、事件が発覚し、トーニャに嫌疑がかかると、録音機をそっとポケットに忍ばせて、事件の真相を録音しようと、娘に会いに行ったりする。こうなると、御見逸れしました、と手を上げるしかない。
ストーリーが進むと、彼女に何の過失があったのか、何で彼女がこんな事になったのかと、溜息をつきたくなる。運命か、因果応報か、スケートのせいか、彼女の行いの結果なのか、呪いたくなるような彼女の人生には、あきれる。決して誰のせいでもないが、人生は、残酷だったりする。彼女の場合、下手に才能があったから、なおさら、その落差は激しい。
半ドキュメントで進むこの作品は、彼女のした事が何倍にも増幅されて、世間に伝わる。報道の自由は、彼女を守ってはくれない。決して容赦しない報道は、ある日、人が興味を失うと、ピタッとやんでしまう。彼女は、報道の餌食だった。しいて、この事件の過失があったとするなら、報道という気がしてくる。報道の自由は、報道は責任を取らないことを意味している。
トーニャは、最後まで、感傷に浸るような様子はない。途中セリフにもあるが、彼女は、典型的なアメリカのシンボルだ。褒められるか、叩かれるか、時として審判に食いつき、知名度を利用してボクシングもする、恥も外聞も無く突進する、まさにアメリカそのものだ。彼女に同情など無用だ、力強く生き続けることだろう。