映画三昧 #2069 ⭐️⭐️☆ 沈黙(63) | juntana325 趣味三昧

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スウェーデンの巨匠イングマール・ベルイマンが「鏡の中にある如く」「冬の光」に続いて撮りあげた「神の沈黙」3部作の第3作。翻訳家の女性エステルは、奔放な妹アナやその息子ヨハンと旅行に出かける。しかし帰りの列車内でエステルの病気が悪化してしまい、3人は見知らぬ町で途中下車することに。言葉が通じず字も読めないその街で孤独に過ごすエステルと、行きずりの男性と関係を持つアナ。コミュニケーションが取れない世界で、姉妹の距離は徐々に遠のいていく。日本では1964年に初公開。2018年の「ベルイマン生誕100年映画祭」(18年7月~、YEBISU GARDEN CINEMAほか)でリバイバル上映。




何十年も前に一度観たが、難解が故に、観る気がしなかった。理解する気にもなれないという映画だった。唯一、印象的だったのが、ヨハンの冷静な眼差しだ。それは、濁ることなく、目の前に起こることを直視する。そして、叔母から託された大切な言葉を口にする「精神」。何のこっちや?


作品は、惑わされないように、親切にも登場人物は3人。さらに、言葉にも惑わされないように、最低限のセリフ。しかも、飽きないように、コントラストの効いた光と影で、シャープな映像美を作り出した。難解と言いながらも、こんなに簡潔な作品は観たことがない。自由に解釈し、自由に楽しみなさい。そうベルイマンは言っている。ただし、「神の沈黙」三部作という楔が打ち込まれているから、自由と言いながらも、制約はある。




3人のキャラクターは、明確だ。合理的で、倫理観を持った姉、不道徳的で、身持ちの悪い妹、そして、二人の行動を只々見つめる息子。


表向き、姉は、典型的なキリスト教の教義通りの女性だが、女性としての性を殺しながら生きてきた。死を前にして、死んでいく恐怖を味わいながら、なおも、模範的に生きようとする姿が、哀れに見えてくる。


その対局の人間像が、妹だ。彼女は、キリスト教で言えば、神に救われるべき子羊だろう。欲望のままに振る舞う彼女の行動に、姉は、小言を言いながらも、哀れに思っているように見える。二人の相関関係の中に、神は存在しない。死期が近い姉は、死の恐怖から救いを求め、迷える子羊妹は、神の救いが必要なのだが、そこに神は不在だ。ラストに至るまで、全く救いようがない二人の運命に、一種の絶望感を覚える。




そして、それをまるで、傍で記述するように寄り添う息子ヨハン。姉妹の苦悩する姿と、ヨハンがホテルを彷徨くシーンが、この作品のほとんどの時間を割く。妹が欲望のままに街を歩くのと違い、彼には、澄んだ好奇心がある。舞台を待つ小人達、初老のホテルマン、街のしじまをつん裂く戦車など、そして、母と叔母、子供の彼に映るものは、現実そのもの。姉妹は、外の切迫した世界が、まるで視界にない。お互いに、エゴを貪っているようにも見えなくもないが、息子のヨハンは違っている。この対比が、人間の内面と外面を表しているようにも思える。


何せ、余分なものが、削ぎ落とされているから、人間の欲やエゴ、愛憎、神の存在などが、くっきり浮かんでくる。ストーリーとて、さして重要でない気がしてくるのだ。そして、最後にヨハンがつぶやく「精神」という言葉、何か他の言葉で言い換えるとすると、自分が信じる理想ではないかと思う。誰かの精神を受け継ぐのではなく、自分で見聞した事から掴んだエッセンスを大切にしろと言うことではないか。勝手な推測だが、この作品は、時代、場所、登場人物の境遇など、規定するものが少ない分、自由な発想で観ることが許されるはずだ。



今回観て、主人公三人以外の言葉が通じない、小人達、ホテルマン、酒場の男など、作品中、シンボリックで、何かのメタファーを感じさせるが、よく意図は分からなかった。最近、良く説明され、分かりやすい作品ばかり観ているせいか、こういう分かりそうで、分からない作品を観ると、なけなしの想像力が、フル回転する。漠然と面白かった、ベルイマン万歳!