私の母方は長寿で姉と私はひいばあちゃんに面倒見てもらっていた
私の記憶には縁側で花札を教わって、一円やピーナッツをかけて遊んでいた
ひいばあちゃんは私達が起きると
「ほら、のの様に行くど」
と着替えを終えた私達を連れて裏山の小さな祠らしき所に挨拶に行った
ひいばあちゃんは離れに一人で暮らしていた
時折ひいばあちゃんのところへ行くと
「茶飲むか?」
と入れてくれた
背中は丸くなって細かったけど、よく面倒をみてくれた
米寿の祝いを曾孫も皆んで祝って、書道の上手いいとこが
「米寿の祝い」
と書いた文字を覚えている
お手玉も教わった、いつもの縁側
お手玉も作ってくれた
母に反物を渡して
「子供が大きくなったら仕立ててやれ」
ともらったと見せて貰ったことがある
私の身近な人の死はひいばあちゃんが初めてだった
九十歳は超えていたので白黒の幕じゃなく、紅白の幕が張られていた
その葬儀で泣いたかは覚えていない
多分三、四年生だったと思う
東京に帰り学校へ登校するようになると
給食を少し食べると吐き気がしてトイレに駆け込むことが続いた
担任から
「もう、あなたは給食食べないで」
と言われたことははっきり覚えている
そのことは母に話していないので、母は
「あの先生はいい先生だった。」
と言っていた
勉強が少し遅れたので、居残り勉強を教えてくれたから
でも、変な宿題を全員に出したりした
「好きな人へのラブレターを書いてくること」
真面目に書いたが、友達に話すと
「変な宿題だからやらなくていいって、お母さんが言ったからやらなかった。」
と言っていた
「確かに」と思ったのも覚えている
給食のことがなくても私はなんとなく先生が苦手だった
クラスの殆どが先生を嫌っていた
その先生が二年生から四年生まで担任だった
その頃はあまり成績良くなかったから
母は私が「お馬鹿」だと思っていた
「詩を書いてくる」いう宿題を私はめんどくさいと思って
「死」という題の詩を書いたが
「あのね、詩ってそういうんじゃないんだよ。」
と母が言ったので
「わかった、わかった。書き直すから」と
消しゴムで消し出したら、母は気づいて
「ごめん、ごめん。」と謝ってきた
私が怒っているのを感じたから
普段の私なら
「そうなんだね、わかったよ。」
と答えるのに違ったことで気づいたのだ
私は幼い頃から自分に否があって怒られる時は口答えもせずに、黙って叩かれたりしていたが、否がない時は泣いてでも否定した
だから母からは扱いにくい娘だったと思う
この癖がいつついたかも私は覚えていない
