言葉のギャップ | Gaydar !

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HIV+です。ゲイです。それ以外の自分って...なあに?(笑)

トヨタの大規模リコール問題について 大規模な公聴会が開かれたのは約2週間ほど前のこと。バンクーバーでキム・ヨナと真央ちゃんがメダルを競ったフリープログラムの前日 2月24日にあたる。

この下院の公聴会では トヨタ自動車の豊田章男社長が日本語の通訳者を交えて議員たちからの質問に答えた。これは アメリカでは非常に珍しいことなのだそうだ。

豊田社長は 公聴会に先立つ冒頭の謝罪文を英語で読み上げた。
「なんだ、英語できるんじゃん」そう思ったアメリカ人はかなりいたらしい。しかし本題に入ると、豊田社長はコミュニケーションを全面的に通訳に頼った。そこまでの語学力がないことを自覚していたからだ。
 '英語できるじゃん'と思ったアメリカ人の中には、本題に入った時点で英語から日本語に切り替えたことに首をひねった人もいたようだ。'それなら最初から全部通訳を介して話せば良いではないか?'確かに、そう思う人がいても不思議ではない。
たとえば CNNの名物番組 Larry King Liveでは、司会者のラリー・キングが番組の冒頭からそのことに触れ、番組に生出演した豊田社長になぜ通訳者をつけたのか、理由を尋ねている(しかも放送同時通訳者を介してだ!)こうした人たちは、トヨタ車の安全性についてのいろんな質問を、社長自身の口から英語で答えてほしかったということなのだろう(さすがアメリカ人的発想!笑)

僕は日本人だから 最初の部分でなぜ豊田社長が英語でしゃべったのか、不思議には思わない。
というより、はじまりのごあいさつで英語を使うという'社交辞令'は 海外に子会社や系列会社をおく日本企業にとってそれほど珍しいことではないはずだ。海外支社長クラスになれば、現地の語学がきっちりこなせるレベルでなければつとまらないだろうが、本社のトップが現地語にうといというのは、なにも日本人に限った話ではないだろう。
一方で、いま上に挙げたような'日本人的発想’の中身を流ちょうな外国語で相手に伝える...たとえば、今回のような世界的大企業の、もしかしたら今後の日本経済の未来にも影響を与えかねないような事態で いぶかしがる相手に 自分自身の口から説得力のある言葉で説明する...というのが並大抵のことではないのも、また事実であると思う。

そこで気になるのは...コミュニケーションに齟齬(そご)があった場合の責任を、通訳者がどの程度まで背負うべきなのか、ということを...世間のどれくらいの人が関心をもっているのだろうか、ということだ。

国際会議や講演などで あらかじめ話す内容が大まかに決まっていたり アジェンダにしたがって議事が進行するような場合は、基本的に同時通訳者が起用される。同時通訳者は、耳に入った言葉をとりあえず頭から順番に時間の流れとともにどんどん訳していく。文章のおしまいから改めて頭にもどって解釈しなおすようなことはない。多少意味が通じにくくても 訳された言葉が文法的におかしくても構わない。要求されるのはスピードである(こうした場合には、多くのケースで事前の資料が渡されるが)
これに対して より慎重になるべき状況では 同時通訳ではなく逐次通訳が利用されることも多い。日本語である程度しゃべった内容をまとめて他国語に通訳するという作業で 外国人の俳優やアーティストが記者会見する場合などを思い浮かべてもらうのが手っ取り早い。それでも 通訳者が発言者のしゃべる内容の意図を100%理解して通訳しているかといえば そうとはいえないし、それは不可能だろう、というのが僕の見解だ。
日本語で話していても、言葉の取り違えなどで相手の本意を曲げて解釈してしまうことは起こりうる。後になってから お互いの間違いに気がつく場合もあれば、相手の言葉づかいや態度に腹を立て、そこでコミュニケーションが終わってしまう場合だって少なくはないとも思う。
だからこそ、こうした時に 責任のすべてを...その間に入る通訳者のせいにしてもいいのか?...という思いが僕の頭をよぎる。
「それが通訳のプロの仕事でしょ」と言われればそれまで。もちろん 職務としてベストは尽くすべきだ。
だが 通訳者や翻訳者は人間ではあるけれども、機械ではない。インターネットの自動翻訳を使ったことのある人なら 一瞬のうちに相手の言いたいことを完璧に他の国の言葉に置きかえることがどれだけ難しいか 理解できるのではないかと思う。

こんなことを なぜ長々と書いているかと言うと...

実はいま、医療の現場で コミュニケーションがうまくいかないことを理由に 本当は治療が受けたくても受けられないとか 自分は本当はこうしたいのに 日本語がしゃべれないからきちんと相手に伝えられず 苦しんでいる日本滞在の外国人が たくさんいるからなのである。

通訳者の数が限られれば その通訳者が抱える負担はいやおうなく大きくなる。また、それとは別に、外国人(通訳を頼む側)がすべてを通訳者に頼りきり 自分が伝えたいことは当たり前のようにすべて訳してくれると思い込んでしまったとしたら それはそれでとても危険なことであると思う。しかし、家族などの身寄りがなかったら 頼れるのは通訳者だけになるが、当然、その通訳者の責任は重くなる。こうした通訳者の役割や責任の限界について、その周囲にいる人たちはきちんと認識できているのだろうか?

話は脱線するが...この間、オスカーの作品賞を取った「ハート・ロッカー」という映画を見てきた。
映画の感想や出来はご自身で確かめてもらうとして、僕が気になったのは、'コミュニケーション不足から、予想もつかないような事態がどんどん生まれてくることがあって、それはすごく恐ろしいことなんだよ'というメッセージが、シビアに訴えかけられていた点だった。

映画は...イラクに駐留する米軍兵士の中で 地上のいろんな場所に隠された爆発物を事前に探知し、撤去に活躍する爆発物処理チームの話だ。
映画の冒頭で爆弾除去の探知ロボットが登場するが、途中で不具合を起こしてしまう。最終的に頼りになるのは人間であり ある米兵=生身の人間が爆発物を破棄しようとする。
隠されていた爆発物が無事に発見され、起爆装置もセットされた。あとは、少し離れた場所で安全に爆発させれば任務終了。ホッとした足取りで仲間の兵士たちの元に戻りかけたその米兵は 不意に姿を現わしたイラク人の登場で生命の危機にさらされる。イラク人は手に携帯電話をもっていた。電話を動作させれば、携帯の電磁波がその爆発物に影響を与えてしまう。
緊急事態に気がついて、仲間たちはそのイラク人に向かい「電話を捨てろ!」「ボタンを押すな!」と英語で怒鳴るのだが、イラク人はためらいなくボタンを押し、爆発が起きる。こうして、その米兵は爆死してしまうのだ。
果たしてこのイラク人は英語を理解していたのか?理解した上でボタンを押したのか、それとも理解できずに押してしまったのか。答えによって180度意味合いが違ってくるが、この映画はどちらの可能性も示し 最後まで明確な答えを出さない(おそらく、意図的な演出なのだと思う)
明らかなのは すでにその時点でお互いのコミュニケーションが壊れてしまっていた、という その事実だけである。

同じような状況が 映画の後半でもう一度登場する。
その場合には英語⇔アラビア語の通訳者が別の米兵のアテンドをしているのだが、危機迫る状況の中、その米兵は、通訳者が'自分が主張したいこと'をきちんと訳してくれていないのではないか、と殺気だっていく。爆発まで残された時間はわずかで、通訳者も仕事よりは自分が逃げたくて仕方がないという状況、であるにもかかわらず。
仕事であるならば、通訳者は最後まで責任を負うべきなのだろうか?コミュニケーションのために、いかなる場合でも現場に残って職務を果たさなくてはいけないのか?そして '何か'が発生した場合に 米兵と通訳の どちらがより重い責任を取らされることになるのだろう?
映画の中のこととはいえ、ちょっと考えてしまったのである。

確かに 言葉でもどかしい思いをしないためにも 通訳や翻訳は必要である。しかしそれは万能ではなく、気がつかない死角がたくさんあることを肝に命じておく必要があるだろう。
映画に出てくる米兵の爆弾処理チームは、いつ終わるとも分らない爆弾処理に途方にくれる。どこかに隠されているはずの爆弾の数があまりに多過ぎるからだ。

同じように コミュニケーションの落とし穴も無数に存在している。