友達に、「遊ぼうぜ!」と誘われる。
遊びの中身は魅力的なもので、誘われるがままに応じれば、「楽しい時間」を過ごせることは分かっていて。
だけど、そう簡単に応じることができない。
自分の心の何かが、それを許さない。
そして、「ごめん、今日はやめとくわ」とメッセージすることに。
特に理由は、つけない。
「そうか」という返事。
向こうの中では、色々と理由を想像しているのだろうけれど、多分、その想像のどれとも違う。
そして、遊びを蹴ってまでしたいと思った「それ」に向かう。
そんな感じの日々を、過ごして来ました。
もちろん、誘いに応じることもあって、それが全てではありません。
ただ、そもそも自分を何かに誘おうとする人も、そんなにいません。
本当に、ごくごく限られた人だけ。
だって、あんまり応じないから。笑
みんな「もういいか」という感じになってくる。
で、残ったその限られた人の誘いすら、迷うという。そして、結構な頻度で断るという。笑
そこまでして何をしているのかというと、
仕事をしたり、物を書いたり、難しい本を読んだり、思索にふけっていたりします。
そういうことは、いくらだってできる。
なぜ、自分はこうなのか。
多分、もっと先にいけるということを自分が知っているからなんだろう、と思います。
まだまだ自分はこんなもんじゃない、ということを、知っている。
自分が一番それを、分かっている。
もちろん、遊びは楽しいもので、私も好きなんです。
好きだから、誘われたら結構悩みます。どうしようか、と思う。
そこで、実は葛藤する。
特に、予定はない。緊急の用もない。普通に、遊べる。
でも。
なぜか、悩む。
対外的には、何もない。でも、対内的にはある。
考えたいことがある。読んでみたい本がある。書きたいことがある。
だから、断る。
テレビも、観たいとは思わない。時間がもったいないから。
受験勉強のときだって、そうでした。遊びに行くことなんてしたいと思わないし、テレビを観たいという欲求が生まれない。
つまり、「我慢」という発想がない。
「我慢している時点で、我慢になっている時点で、少し違うと思うんだ」と、私はよく言います。
したいから、やっている。
そして、したいと思うのは、描いている到達点にいる自分こそが、自分自身であると知っているから。
それが分かっているから、楽しい世界に連れて行ってくれる誘いを断ってまで、地味な作業をするのでしょう。
想像力の限界が人間の限界だとよく言われます。
あなたは、自分がどういう人生を送るに値すると思っていますか。
あなたが「自分はこういう人生に値する」と信じているまさにその人生を、あなたは送るようになります。
自然に、体がそっちに向かうようになる。
だから大事なことは、あなたがあなたの価値を認め、自分を尊重して、信じられるようになること。
なのです。
ではどうしたら、ということも含め、書きたいことはたくさんありますが、今日はこのへんで。
ではまた。