小学生の頃、道徳の授業が好きでした。あれって明確な答えないじゃないですか。発表で自分の考えを言えるあの授業が好きだったんです。ある日、道徳の授業で扱われた話でこんなものがありました。

 

 "野球の試合で、キャッチャーである主人公が、ホームベースで相手ランナーをタッチアウト。これで主人公チームは勝利しました。しかし本当は、主人公はボールを取り損ねていたのです。それを知っているのは主人公だけ。自分のチームは勝利し、周りは喜んでいる。相手チームは負けて悔しくて泣いている人もいる。主人公はどうすればよかったのでしょうか。" 


 当時、子供会のソフトボールをしていた僕や少年野球をしていた友人達にとってこの問題の答えは1つでした。(他の子もそうかもしれませんが。)「何も言わない。」野球は団体競技であり個人のスポーツではないし、審判がアウトと言ったのならアウトであり、ましてや事実を知っているのが自分だけなら黙っているべきだと。友人が発表し、僕もそれに賛成でした。しかし、先生の反応は思っていたのとは違っていました。「それはいけません。嘘はついてはいけないから正直に言うべきです。」と。それを聞いた当時僕は道徳にも模範解答があることにがっかりしました。たしかに、嘘はついてはいけないけど、この場合は仕方がないじゃないかと。そんなもの綺麗事だとか。


 今思えば、小学生の道徳の授業としては先生の言ったことは正しかったと思います。あれはあくまで授業であり、綺麗事を知る授業だったんだと。「嘘はついてはいけない」「人を傷つけてはいけない」こういうしてはいけないことを知っておくことって当たり前のようですが、すごく大事なことだと思います。僕たちはこれらの綺麗事を基準にして物事の善し悪しを考えています。だから僕達は綺麗事にそぐわないことをしたときに罪悪感を感じます。


 そもそもこれらの綺麗事が逆に「人に嘘をつかなければならない」や「人を傷つけなければならない」だったら僕たちはそれらを善いこととして、人に正直に話した時に罪悪感を抱くことになるでしょう。


 まあ、綺麗事の内容はともかく僕たちは物事の善し悪しを判断するために綺麗事を知っておく必要があるんだと思います。綺麗事って言葉はあまり良いように使われていない気がします。それは世の中が綺麗なことだけでは動いてはくれない複雑さが原因なんでしょう。ただ、綺麗事は言葉通り綺麗な事であり、常に目指すべきルールなのではないでしょうか。


 綺麗事ですね。