Part.2 第1章 再会(2)
シャオシャオに別れを告げ、モーションは初夏の街並みを歩いている。頭の中では今なおシャオシャオの言葉がこだまする。
「彼はあれからずっと一人よ……ホー・イーメイ?彼女は妹なんじゃない?」
なんと彼らは一緒になっていない。じゃあ私はあの年、いったい何のために離れ去ったの?
そして、彼はいったい何のためにあんなことを言ったの?
手を広げれば掌には、 「ユエン・シアン・ホー法律事務所」の住所が書かれた紙がしっかり載っている。
シャオシャオが言う。 「もしかしたら必要になるかもよ」
わざわざ来たわけではない。ただ通りがかったにすぎない。
しかし、結局のところ 「ユエン・シアン・ホー法律事務所」の中に立っていた。
受付嬢がすまなさそうに微笑む。 「ホーは留守にしておりますが、ご予約のお客様でいらっしゃいますか?」
モーションはガッカリしたのかホッとしたのか自分でもわからないまま答える。 「いいえ」
「どのようなご用件でしょう?よろしければ私がご伝言を承りますが。あるいは……」 受付嬢は時計を見る。 「こちらでお待ち下さい。ホーもじきに戻ると思いますので」
「いえ、結構です。改めて伺うことにします」 モーションは2歩歩きかけて振り返る。 「あのう、これ、ホー先生のお財布なんですけど、お手数でしょうが、渡していただけますか」
これが結果だ。
情は深いのに縁が浅く、始末が悪い。
「モーションさん、海外と国内の仕事の違いってどんなとこ?」 そろそろ業務終了という時刻、雑誌社の同僚は仕事する気も起きなくて雑談に興じている最中、突然質問してきた。
「うーん」 モーションは周囲をちらりと見回し、上司がいないことを確認する。 「かなり高給ってとこかな」
なんでい!口の減らない同僚たちはすぐさま鼻を鳴らして人を食った態度を見せる。
「あっちで差別を受けた?」
「ちょっぴりね」
「正直、そんなの気にすることないさ。香港人だって、いまだに本土の人間を見下してるじゃんか!」 香港から戻ったばかりのダーバオは、身にしみて感じていた。
「自分が身をもって体験したら、そんな風にクールにしてられないはずよ。以前ね、アメリカ人の上司が同僚全員の前で “中国には本物のアーティストがいない” って言ったことがあったんだけどね。それを聞いた途端、私、カチンときちゃって。後にも先にも、あんなにはっきり自分が中国人だと痛感したのは初めてだった。その場でそのタヌキ親父の鼻を指差して 『アンタに中国の芸術の何がわかるの。アタシたち中国人が芸術を愛でてる時、アンタたちアメリカ人はまだどこの馬の骨とも知れなかったクセして』 って言ってやったわ」
「ブラボー!たくましいな!」 同僚たちは次々手を叩き、口を極めてほめたたえ、一斉に彼女に尋ねる。 「それで、どんな口実つけて首を切られたの?」
「……」 モーションは笑うとも泣くともつかぬ表情をする。 「何だかんだ言って、アメリカ人っていうのは高ビーだけど、体格に比例して器も大きいのよね。ある日、上司がどこで手に入れたんだか、筆・墨・紙・硯を手に私のもとへやって来たと思ったら、いくつか漢字を書いてくれって頼むわけ。応接室に掛けておきたいからって」
「うそっ、マジ?」
「モーション君の字ってさ、一見の価値があるのかい?」
「フッ、鄭板橋(中国の書家)ばりの腕前を披露したわよ。先ずは画仙紙に墨汁を全部ぶちまけるでしょ。その後、もったいぶって長いこと、ああだこうだといじくり回したの。そのアメリカ人たちはポカンとしてたけど、しまいには感嘆の声を上げてた。だけど、正直言うとね、それが自分で書いた字じゃなかったら、私だって何て書いたか解読不明だった気がする」
「何て書いたの?」
「汝は野蛮人!」
プハッ!同僚の1人がお茶を噴き出す。
ワッハッハッと爆笑の渦の中、遠くで誰かが呼んでいる。 「モーションさん、あなたにお客さんよ」
モーションは振り向き、‘花の子ルンルン’――として知られる、 元へ。ゴシップ好きな‘いい男好きの子シャオホン’が駆け込んでくる。 「応接室に、超イケメンで超クールでメチャクチャ渋い男の人が来てる。いかにも勝ち組っぽいオーラの都会のエリートよ。若き秀才って感じ。モーションさん、帰国したばかりなのに、あんな上等品をストックしてるなんて、意外と隅に置けない人ね」
ルンルンの話が信じられるなら、空飛ぶ豚だって存在しているはず。概して彼女の言うことは話半分で聞かなければならない。時にはマイナスを掛けて聞くこともある。
だけど、モーションは非常に興味がわいた。帰国したばかりで顔見知りなんかいないのに、誰が私を訪ねて来るんだろう?
あの人という思いは微塵もなかった!
応接室で彼女に背を向け、フランス窓の前に立っている苦み走った男は、なんとホー・イーチェン。ドアが開く音を聞いて、彼は振り返る。寒々しい視線が彼女を射抜き、冷ややかな表情はわずかな感情も表に出さない。
ルンルンは決して誇張していなかった。確かに彼はひときわハンサムで、気位が高く、特注のスーツは背の高いすらりとした体つきを際立たせている。以前と変わらぬ自信と落ち着きがあるが、人を寄せつけない厳しさが若干増しているようだ。
彼女はまったく言葉が出てこない。
一方、彼は沈着冷静な顔をしており、軽く頭を下げて挨拶する。 「チャオさん」
チャオさん?
本来なら笑いたいところだが、モーションにはハードルが高すぎる。 「ホー……さん」
遠くにある椅子を手で示して、モーションは言う。 「どうぞ」
彼女は茶葉を取り出すと、頭を下げて自分の表情を隠す。彼のようにつれない素振りなどとてもできず、ただ高ぶる感情を隠すのに精一杯だった。 「飲み物は何にします?」
「せっかくだが、結構」 彼のまなざしは冷やかだ。 「話が済んだらすぐ失礼する」
「ああ、私を訪ねて来たんだった……私がここにいることはどうやって?」
彼は5秒停止し、おもむろに口を開く。 「シャオシャオ。僕は彼女の弁護士だ」
「ご用件は何でしょう?」
彼の語気はにべもない。 「チャオさんが3日前にうちの事務所へ来て、出直すと言ったきりいつまで経っても顔を見せないから、やむなくこちらから出向いた」
モーションは愕然として頭を上げると、彼の燃える瞳にぶつかる。 「どうしてそれを……」 私は名乗っていないのに、財布を返したのが私だと彼はどうやって知ったの?
「チャオさん、僕にも十人並みの推理能力はあるもんでね」 彼は皮肉って言う。
たぶん、弁護士と称する人は誰しもこうした 「十人並みの推理能力」を持っているのだろう。モーションは壁を見つめる。 「私は財布を返しに行っただけですし。すでにあなたの手に渡っているなら、もう足を運ぶ必要もないかと」
ホー・イーチェンの瞳がきらりと光る。 「財布を返す以外に、他の用はない?」
まだ何か用があったっけ?モーションは呆然とする。 「ないけど」
「まあいいだろう」 彼の目の中を失望の色が横切ったように見えた。そして、足を踏み出し彼女の前にやって来る。 「だが、こちらにはあるんだ」
彼はあの黒い財布を取り出し、彼女の目の前に置く。 「この中に写真が1枚あったはず。チャオさんはその在りかを知らないか?」
もちろん知っています。モーションは頭を下げる。 「そうなの?気がつかなかった」
「へえ?財布の中には金しかなかったのに、チャオさんはどうやって僕のものだとわかったんだね?」
モーションは答えに窮する。もう少しで彼が弁護士で、相手の言葉からボロを見つけるのが得意だということを忘れるところだった。彼を欺きたいなら、先ず自分の技量を認識しておくべきだった。
彼は体をかがめる。 「チャオさん、僕に写真を返せるかな?」
モーションは突然わけがわからなくなる。彼はどういうつもり?「君は見知らぬ他人」という素振りを示す一方で、私の写真を請求する。
「写真に写っているのは私なのに、どうしてあなたに渡さなきゃいけないの?」
「チャオさん、君には弁護士と物品の所有権について討論しないことをお勧めする」 イーチェンが突き放したように言う。
モーションは力を落とす。彼女はこんなイーチェンに不慣れな上、対処する術がない。 「写真は手元にないの」
「明日渡してくれ」
「明日、私は……」
「チャオさん!」 ホー・イーチェンは彼女をさえぎる。 「お互い深入りしすぎることは望んでいないはずだ。さっさと片づけて幕引きにすべきじゃないのか」
さっさと片づけて幕引きにする?モーションは長いこと押し黙る。 「どうしてあの写真が欲しいの?」
「理由なんかどうでもいい」 イーチェンの眼光が暗く沈む。 「たぶん身近に置いといて、あの愚かな過去を忘れないよう、常に自分を戒めていたいんだろう」
愚かな……そう、とっても愚かな!彼女はどこかで淡い期待を持っていた。
ホー・イーチェンは独断で決める。 「僕が明日取りに来る。手が空いてなければ、他の人に託してもらってかまわない。失礼した、チャオさん」
彼がスタスタ歩き去り、ドアノブをつかもうとした時、背後から話しかけるモーションの小さな声が耳に入る。 「待って……明日、私が届けに行きます」
「わかった」 イーチェンは無表情で振り返る。 「君の協力に感謝する。じゃあ、また明日」
モーションは彼のすらりとした後ろ姿が去って行く様を呆然と見送る。いつの日か2人が再会したらどんな風だろうと考えなかったわけではない。しかし、まさか2人には 「久しぶり」の一言を交わす情愛すらなくなっていたとは思ってもいなかった。
愚かな過去?
モーションは寝室の鏡の前に立ち、鏡の中から見つめ返す女をじっくり見る。
もしも短い髪を長くして、ポニーテールに結んだら。もしも日焼けした肌がちょっぴり色白になったら。もしも今でも屈託のないまぶしい笑顔を浮かべることができたなら……最も重要なのは、もしもこの7年余りの間感じていたやるせなさを目の中から消せたなら、そうしたら私は、お人好しで天真爛漫な――大学に入学してホー・イーチェンと知り合ったばかりの頃のチャオ・モーションになれるだろう。
「ホー・イーチェン ホー・イーチェン……」
「ホー・イーチェン ホー・イーチェン……」
イーチェンにいかにしてつきまとうか彼女自身も定かではなかった。イーチェンに至ってはもっとわけがわからない。とにもかくにも、当時の彼女は彼を追いかけ回した。ある時、ついに彼は我慢しきれなくなって、険しい顔で質問する。 「チャオ・モーション、どうしていつも僕について来るんだ?」
現在の自分だったら、たぶん恥ずかしくて穴があったら入りたい思いだろう!しかし、当時の私はとんでもなく厚顔無恥で、目を大きく見張って尋ねる。 「イーチェン、あなたがおバカなの?それとも私?うーん、あなたはそんなに賢いんだもん、きっとおバカなのは私のほうね。どうしてこう失敗してばかりなんだろう。ずーっと追いかけてるのに、その人は私が何をやってるのか全然知らないなんて!」
イーチェンが呆気にとられ、しばらく言葉を失っていたのをいまだに覚えている。後日、彼がこの件について語った時、笑い顔とも怒り顔ともつかない表情で言った。そもそも詰問口調を使うことでその子に恥ずかしい思いをさせたかったのだと。ところが、この世には予測を超えた面の皮が厚い女の子がいたもんだから、逆に自分の首を絞めてしまったと。
だからあの時、法学部の優等生はぐずぐずと反応した後、しどろもどろにしか話せなかった。 「僕は大学で彼女を見つけるつもりはない」
当時の私は、それが逃げ口上だと気づかないほど無邪気で、矢継ぎ早に質問する。 「じゃあ私、今すぐ列に並ぶわね。あなたが卒業する時、優先権をくれるでしょ?」
常識で測れない相手を前にしたら、弁論大会最優秀を取った能弁な男の滑舌もにわかに悪くなり、「授業がある」 と一言言い捨てると、あたふた逃げ出した。
もちろん彼女はこんなことで落ち込みはしない。しかし、もっといい方法を思いつく前に、思いもよらず学校で誰かが吹聴しているのを耳にする : 法学部のあのホー・イーチェンに彼女がいるんだってよ。チャオ・モーションとか言ってさ、メチャクチャ言いにくい名前だよな。
彼女はそれを聞くが早いか飛び出し、自習室まで駆けて行ってイーチェンを見つけると、慌ただしく事実を明らかにしようとする。 「噂を流したのは私じゃないわ。どうか信じて」
イーチェンは本から頭をあげて、清らかに澄んだ瞳で言う。 「知ってる」
彼女はバカ丸出しで尋ねる。 「どうして知ってるの?」
イーチェンは顔色ひとつ変えず答える。 「僕が流したから」
今回はついに形勢が逆転し、彼女のほうが呆気にとられてものが言えず、耳元で彼が冷静に分析している。 「僕はよくよく考えたんだ。どうせ3年後に君が僕の彼女になるって決まってるんなら、早めに自分の権利を行使したほうがいいかなって」
はぁ!あの時!
鏡の中の人の口元がかすかに曲がる。しかし、その微笑みは目まで到達する前に、すでに消えてなくなっている。
ぼうっとしてバルコニーまで歩いて行く。あの明るい月とまばらな星を見たんだから、明日はいい一日になるはず。