Part.3 第2章 転身(1)
夕日が西に沈み、夕焼け雲が空を覆う。
ホー・イーチェンは10階にあるオフィスのフランス窓の前に立っている。夕日を鑑賞する心境に至った自分が我ながら不思議だった。
もしかしたら、彼女が戻って来たせいかもしれない。
メイティンが扉を押し開けると、こちらに背を向け窓の前に立つホー弁護士が目に入る。指に煙草を挟み、全身から醸し出される寂しげな様子……寂しげ?メイティンは思わず我が目を疑った。この言葉をどんな時も落ち着きと自信にあふれるホー先生に対して使っていいものかしら?
イーチェンはドアが開く音を耳にして、振り返り尋ねる。 「何だね?」
「あっ」 メイティンはその声でとりとめのない想像から我に返ると、すぐに伝える。 「ホー先生、ホンユエン社のチャン副社長がお見えです」
「お通しして」 イーチェンは混沌とした考え事を頭から追い払い、自らの仕事に専念する。壁の時計にちらりと目をやり――5時、彼女はまだ来ない。
ようやっとチャン副社長を見送ったイーチェンはくたくたに疲れたため、椅子にもたれて目を閉じ、静かに休んでいる。大きな手を激しく叩く音がして、彼は仕方なく目を開けた。 「ユエンさん」
大学卒業後、イーチェンは大学院への推薦を辞退して 「ユエン・シアン」法律事務所へ直接出向き、働き始めた。現在は「ユエン・シアン・ホー」法律事務所と改名され、共同経営者の1人でもある。ユエンさんともう1人の共同経営者シアン・ホンはどちらもC大の同窓生で、シアン・ホンは1期先輩、ユエンさんはすでに卒業してかなりの年数が経っている。
以前にも増して強盗っぽい様相の屈強な大男はゆったりと向かい側に座ると、そっくり返って足を組む。 「この後、どうするつもりだ?」
イーチェンは頭も上げずに答える。 「残業」
「ウソだろ!」 ユエンさんは絶叫する。 「今日は週末だぜ!」
「それがどうした?」
「それがどうした!」 ユエンさんは彼の言葉を繰り返して頭を振る。 「なるほど冷酷非情なワーカホリック 、ホー・イーチェンが言いそうな事だ」
イーチェンは目を細める。 「ユエンさんにそういう言葉のセンスがあるとは知らなかったな」
「NO、NO、NO」 ユエンさんは指を振る。 「これはホー・イーチェンその人を知る、世のご婦人方全員の共通した意見さ」 彼はこそこそと近寄る。 「イーチェン、ずっと訊きたかったんだけどさ。お前って、やっぱゲイなのか、それとも人に言えねえ病気でもあるとか?」
こんなくだらない低レベルな話に取り合うのはイカれた野郎だけだ。メイティンが入って来てコーヒーを2客出す。イーチェンは彼女を呼び止めて尋ねる。 「今日、チャオさんは来たかい?」
メイティンはちょっと考え、頭を振って答える。 「いいえ」
イーチェンは 「うん」と一声出して了解したことを言葉で示し、メイティンに言う。 「俺はもうここでやることないから、君も早く家に帰っていいぞ」
メイティンは頭を振って言う。 「私、急いではいませんので。ホー先生は何時頃お帰りになります?何か召し上がるものでも買ってまいりましょうか?」
「いや結構、ありがとう」
メイティンはその意を汲み取り、がっかりした顔つきで出て行った。
ユエンさんは舌を鳴らして言い立てる。 「おい、べっぴんさんのメイティンはお前に気があるんだぞ。オフィスラブってのもいいんじゃねえの?」
「彼女は真面目な子なんだから、出任せを言わないでくれ」 イーチェンは彼に警告する。
鉄心石腸!ユエンさんはひそかに頭を振る。女性に対するイーチェンの態度は常に礼儀正しくきめ細やかだが、一定の線を越えることは決してない。この数年間で 「ホー・イーチェン」という名前の下、撃沈していった少女がどれほど大勢いたことか。
どっと群がる女たちを責めることはできない。ユエンさんの男の目でもって見ても、ホー・イーチェンはやはりとても優秀だった。その才腕を強く感じさせる外見を度外視しても、ここ数年にわたって彼が法曹界で徐々に培った評判と謹厳実直なイメージは高飛車な、はたまた美しい女を惹きつけるに十分だった。
「お前はいったいどういう女が好みなんだ?あれほどたくさんの女を見といて、1人として心が動かなかったのか?あの外資系企業の美人取締役、すっげえ悩殺ボディしてたよな!あのテレビ局の女司会者。お前ら、あんなに長いことタッグを組んどきながら、まさかこれっぽっちも燃え上がらなかったのか?それに、頭が切れて有能な同業者シュー・ピーリーだっているぜ。今日、裁判所で出くわしたんだけどさ、まだお前のことに探りを入れて……」
ユエンさんは言葉を発するごとにヒートアップしている。イーチェンは聞き流し、好き放題でたらめを言わせておく。
暖簾に腕押し、糠に釘。ユエンさんはやる気が失せて止めるが、しばらくすると目がキラキラ輝く。 「わかったぞ。きっと我らが妹のイーメイだろ。お前、あの子に対しては人間味がある方だもんな」
イーメイはしばしば事務所を訪れており、ユエンさんは彼女のことをよく知っていた。
「あの子は妹だ」 イーチェンは不愉快そうに言う。
「よく言うよ。血の繋がりはないじゃないか」 ユエンさんは内部事情に詳しい。
「だからと言って、何も変わりはしない」
イーチェンの口調はかなり淡々としているが、その中にある固い信念をユエンさんは聞き取った。イーチェンが頑固なことは百も承知なので、ユエンさんは頭を振ってもう何も言わない。
「ホー先生」 メイティンが手に封筒を持って入ってくる。 「今しがた、女性がこれを届けにいらっしゃいました」
イーチェンは触った途端、中身が何かわかった。 「その人は?」
「これを置いて帰られました」
「帰った?」 イーチェンの顔が曇る。 「どのくらい前?」
「1分と経っていません」
イーチェンはとっさに車のキーとジャケットを手に取ると、外へ飛び出る。ユエンさんは追って行きかけて、彼の背中に向かって叫ぶ。 「どこへ行く?」 彼の耳にはまるで届いていないようだった。
出入り口でユエンさんは、裁判所からちょうど戻って来たシアン・ホンと鉢合わせる。 「あいつ、どうしたんだ?」
シアン・ホンは、イーチェンが立ち去った方向を見ながら何か考え事をする。 「俺は原因を知ってる気がする」
「知ってるのか?早く言え、早く言え」
「さっき、下の階で顔を見て、見間違いかと思ったけど、やっぱり本当に彼女だったんだな」
「誰だ?勿体ぶるなよ」 ユエンさんはいらいらして言う。
「ユエンさんはイーチェンがどんな人だと思ってる?」 シアン・ホンはそれには答えないで問い返す。
「冷静、理性的、客観的」 ユエンさんの適正な評価。
「ところが、その人はヤツを冷静でもなければ理性的でもなく、客観的でもなくさせちまう」
ユエンさんの好奇心が湧き上がる。 「女か?」
「ビンゴ。ヤツの元カノ」 シアン・ホンはイーチェンより1つ上だったが、同じ寮に入っていたため、イーチェンの過去に精通していた。
「カノジョ?」 ユエンさんは摩訶不思議な物語でも聞いているかのような表情をする。 「あいつにカノジョがいたのか?」
「ビンゴ。その後、彼女がアメリカへ行ったもんで、イーチェンと別れた」
「要するに……」 ユエンさんは目を丸くする。 「イーチェンは振られたってか?」
「ビンゴ。しかも、事前通達もなくいきなりだ。ヤツが知ったのは、彼女がアメリカに発った後。この話題は学校中に伝わって、イーチェンはしばらくかなり荒んでたな。その頃、酒と煙草を覚えたんだ」
「ウソだろ……」 ユエンさんはどんな女がホー・イーチェンを棄てるのかまったく想像がつかない。道理で女っ気がないのも無理はない。なんだ、‘蛇に噛まれて朽縄に怖じる’ってわけか。
ちょうど帰宅ラッシュに差し掛かり、モーションは急いで戻ることなく、ごった返す人の流れに従って当てもなくさすらう。
今更ながら、昔の自分とはかなり変わってしまったと認めざるを得ない。以前の私だったら、絶対こんな風に物怖じするなんてあり得なかった。何としても彼に会いたくてたまらないのに、その勇気がない。
あの頃は、イーチェンがどんなに冷たくしても、どんなに突っぱねても、笑顔で彼のそばをついて回っていられた。だけど今は、数言を口にする勇気すらなくなってしまった。
イーチェンはかつて、私をsun shineだと言ったことがある。どんなに拒みたくても拒めない日差しだと。しかし、私の心の中の日差しさえ姿を消してしまった今、どうやって他の人を照らせるというの?
突然、一台の銀白色のBMWが目の前で止まり、モーションは頭も上げず避けて通ろうとする。そこへ、耳慣れた声が聞こえる。 「乗って」
彼女は驚いて頭を上げた。彼だ!
イーチェンは彼女がそこでぽかんとする様を見て、眉間にしわを寄せてもう一度言う。 「ここは停車できないから、乗って」
モーションがいったい何事かと考える間もないうちに、イーチェンの車はすでに帰途に就く車の流れの中に埋もれていた。
「中華、それとも洋食?」 イーチェンは前方に注意を払いながら、口を開いて彼女に尋ねる。
「中華」 彼女は反射的に答え、声に出してから違和感を覚えた。中華か洋食だなんて、私にご馳走してくれるつもり?
イーチェンは冷ややかに彼女をちらりと見た。 「まだ箸の使い方を覚えてるか?」
モーションは彼の辛辣な皮肉を聞いていないふりをして、慎重に尋ねる。 「ご馳走してくれるの?」
「俺の財布を拾ってくれたんだ。お礼するのが筋ってもんだろ」
「そんな気遣い必要ないのに」 モーションはもごもご言い、やりきれない思いに襲われる。私たちはいつこんな会話をする状況になったの?
夕食は有名な‘秦記(チンジー)’で食事をする。美しい環境、おいしい料理、行き届いたサービス、いずれもモーションの気分を盛り上げることはできず、差し向かいで座る無表情のその顔と面して食事をしていたら、消化不良になるのはもはや決定済み。
軽快に響く着メロが食卓の重苦しい空気を打ち破った。イーチェンが電話に出る。 「もしもし……そう……俺はチンジーにいる……いや、チャオ・モーションも一緒だ……偶然会って……ああ」
突然、彼が彼女に携帯を手渡す。 「イーメイが話したいらしい」
モーションは一瞬キョトンとして応対する。 「もしもし」
「もしもし、モーション」 なめらかな声が受話器越しに伝って来る。
「イーメイ、お久しぶり」
「ええ、久しぶりね」
どちらも口数少なく、何を話せばいいかわからない。ようやくイーメイが切り出す。 「モーション、あれからずっと元気にしてた?」
「悪くなかったわ。楽しすぎてホームシックとも無縁だったくらい」 モーションはわざと気楽そうなふりをして答え、向かいにいるイーチェンの動きが突如止まったことにも気づかない。
「そう」 またひとしきり沈黙が続いた後、イーメイが言う。 「連絡先を教えてもらえるかしら?時間を見つけてちょっと会いましょう」
「いいわ」 モーションは携帯番号を告げる。
「わかったわ。じゃあ、また」
「さよなら」
電話を切り、携帯を閉じてイーチェンに返すが、彼は受け取らない。 「君の携帯番号を入れて」
モーションは一瞬ハッとなり、頭を下げて番号を入力するが、名前を入力する段にきて手こずった。
「中国語の入力モードは何を使ってます?」
「筆画」
「ああ」
それでも入力できない。 「‘黙(モー)’っていう字は、どうやって入力すれば?」
イーチェンは手を伸ばして彼女の手から携帯を取る。 「俺がやる」
モーションが気まずい思いで、彼のスラリとした長い指がシルバーグレイの携帯の上を優雅に無駄なく動き回るのを見ていた。ものの数秒で入力し終えると、携帯を閉じてポケットにしまう。
「自分の名前の漢字の書き方さえ忘れたのか?」
「いいえ、あなたの携帯を使いこなせなくて」 モーションはもごもご釈明する。
彼は彼女をちらりと見て、もう話をしない。夕食はこうした静かな雰囲気の中で過ごしたが、それはそこだけに留まらず彼女を家に送り届けるまでずっと続いた。
モーションは車から降りて言う。 「送ってくださってありがとう」
彼はうなずき、車を発進させて走り去る。
モーションはその場にじっと立って、ただ虚無感に浸る。どれほどそうして立っていたかわからない。道行く人の好奇の視線に気づき、ようやく夢から覚めたように足早に立ち去ると、階段を駆け上った。