映画「アポカリプト」をDVDで鑑賞。
メル・ギブソン監督の「マヤ文明」を題材とした作品。ちなみにたしかR15だった。
正直ずっと鳥肌が立っていた。
おそらく
①今現代の日本おいては考えられないような痛みや苦しみのシーンが多かったため、単にそういった意味での恐怖によるもの。(結構グロテスクな描写が多かったのでそういったものが苦手な方は見ない方がいいだろう。)
②ストーリー的にハラハラドキドキな感じ
という二つの理由だと自分では思う。
まず「恐怖は人間を支配する」という父からの忠告から始まり、父が村を襲撃されたときに殺され、自分も捕虜になってしまう。しかし父の忠告を思い出し、恐怖心に対しての主人公の捉え方に変化が出てくる。これは現代の自分にも勿論言えることで、以前書いたことがあるが感情を支配しているのは「脳」であり、自分の心を客観的に見れるようになると、恐怖心に対する自分の捉え方を変えることができるのではないかという私の主張とかぶるところもあると思う。しかし、いくら客観視したとしても、人間は自分の脳の生成する感情からは逸脱することはできないのは無神論者の私には当然いえることだが、そういった穿った見方は大切なのは変わりないだろう。
最終的に生贄になりそうになりながらもなんとか自分の村に帰還し、嫁と子供たちに再会する。
最後の最後に外国船がやって来ていたのだが・・・・・・・・・・・・・・・・何故なのかよくわからなかった。歴史的な経緯なのか・・・・・もしくは何かの代替的に表現したのか・・・どちらにせよ私に読み取る力がないだけだろう。
ここからはなんとなく感じたこと。
①昔は生贄として人の首、血、心臓などを差し出すという風習があったのは事実だと思うが、神に対する信仰心というのは恐ろしいと感じた。
古代においては「森羅万象全てのことは神によって決められ、起っているのだ」というドグマが大多数の人におそらく刷り込まれていただろう。科学技術が発達していないので不可解と思えることが現代より格段に多いため、「神」を創造するのは納得がいく。「生贄として捧げられるのは名誉なことである」という考え方もあったみたいだが・・そういった考え方もあるのか・・・・・・・・・・・怖い・・・・という感じ。
生贄はほとんどないと思うが、 現代でも「神による支配」という考えはむしろ主流なのかもしれない。私は全てが宇宙(もしくは地上)にある物質のみに依存し、単なる確率によって起っていると考えたりしちゃうタイプの人間なので、神とのチャネリングというか交信というものは文化、文明としては尊重するがあまり自分としては受け入れることができないかも。
②今の自分に大切な人を守ることができるだろうか。
おそらく時代にかかわらず共通していることだが、大切な人を守ることの重要性というのはどんな時代にも存在するだろう。特に古代においては自分の財産、所有物が現代ほどきちんと守られていないのでその意味は大きくなると思われるが。大切な人のために自分の命を擲つことができるのか。もし今外国が攻めてきたときに自らの命を顧みず、戦うことができるか。この映画の主旨にかかわらず、そういったことをふと思った。
稚拙な文章読んでいただいてありがとうございました。