また、あやしい話。
これからどんどん直接的に書いていきますので、観たい方だけで結構です。
かなり核心に迫っていきますので、発言も過激になっていくと思います。
でもしばらくその前段階での説明で時間を費やしそうです。(Introduction)
現在の俺の論理思考能力では、論破できない命題は山ほどあります。
その内の1つ。
「確実な知識はありえるか」 です。これを1例に説明。
論破するというのは、
「ある」もしくは「ない」のどちらかで万人が納得する論理を展開しなければなりません。
答えは「ある」でも「ない」でもどちらでもいいですが、重要なのは論理的に正しいかどうか。
「その論理だとあるかもしれないけど、ないにもなるよね」って指摘された時に、それに反論できなければその時点でアウトです。
つまり、「あなたの論理にはパラドクスがある。」ということになります。
では、「論理的に正しい」とは?
簡単に説明すると、まず結論を述べます。(英語で言うとトピックセンテンス)
答えは2通り。
「確実な知識はありえる」 もしくは 「確実な知識はありえない」
そしてそれの裏づけとなる論理を展開しなくてはなりません。つまり、
なぜ「ありえる」になるのか。
なぜ「ありえない」になるのか。
例えば、こんな感じ。(俺が哲学の講義で実際に書いたやつ)
確実な知識はありえない。
知識とは、人間が主観的に定義した概念が長年蓄積・伝達されてきた中で一般化されることによって共通認識しているもの(情報)に過ぎない。すなわち、・・・・・であり、その確実性を考えた場合、・・・・・・それが確実であるかどうかは、・・・・
とツラツラと長く書いているのですが、パラドクスが生じていて「ありえる」になりえてるので省略(つまり論述として0点)。
論破するというのは、結論に至る過程が論理的に正しいかどうかです。
論理的に正しければ、「ある」でも「ない」でもいいのです。
「ある」なら「ある」で、どうして確実な知識があると言えるのかを論述しなければいけません。
感覚的に「だってあるじゃん」とかNGです。←論理に弱い自分はたまにこういうヒネクレモノになります。
日本人が弱いのはまさしくここです。
言語論理学的なちょっと面白い話。
英語圏で生活している方は「Yes」「No」どちらかでハッキリさせるように論理思考を展開させています。
「どっちかなー、どっちもかなー」というのは彼らからすれば「論理的におかしい」になるので嫌われます。
日本人でも、論理的に思考する場合「英語で考える」という人はよくいます。
中学・高校の時に、英文で結論はトピックセンテンス(文頭)に来るって習いませんでした?
「なになにはこうだ!!」ってまず、ズバっとくるんです。
英語はそういうもんだから、ではなく思考形態がもはやそうなっているんです。
「Yes, we can !!」なんです。(これは違うか)
(Rさんは英語・フランス語・中国語など様々な言語を巧みに操っていますが、「French(フランス語)で考えるとこうなんだよなー」とか意味不明なことを一人でブツブツと言ってます。)
じゃあ今言いたいこと。
「真言密教」・・・こういう記事を抵抗なく読まれている方は
信心が厚い方か、「そういう世界があってもいいかな?」となんとなく思っている方だと思います。
ただ、なんとなくという感じで信じないでください。
俺の書いた文章を論破してください。
自分の論理で、正しいか間違ってるか判断してください。
読む文章の中に違和感を感じることが非常に重要で、否定的な観方は必要です。
(「そんなことあるはずがない」と直感的に決め付ける否定とは全く違います。)
そういう観方は、生きていく上で持っておいたほうがいいです。
哲学的懐疑ってやつですが。
疑える能力、何かに気づく能力というのは非常に重要です。
観える世界がまるで変わってきます。
ただし、こういう世界のことを書くと
「ないことは証明のしようがないけど、あるという結論に至るだけの確信できるような証拠もないよね」
ということになります。
確かに客観的な証拠はありません。
安易に信じるのは危険だけど、ないと決め付けて否定するのは
その人自身の哲学する機会をなくしてしまっています。
だから、否定的な観方・懐疑的な観方を含めて様々な視点から物事を考えて、
そこで自分の論理を展開していってください。
「ありそう」や「なさそう」で結構です。
と言いたいだけです。
こっからが本題。
人生においては、その人の「論理」が試される機会が日常的にやってきます。
(それをお釈迦さんの掌の上で・・・という表現になることもあるのかと)
究極の選択・判断に迫られることもあります。
「なぜそれをする(結論に至った)のか?」
それを論破しなければなりません。
ある結論に至るには、論理を組み立てて、あらゆる角度からの示唆が必要です。
例えば、道徳的に観た時に・倫理的に観た時に・・・・・それらを結びつけて自分の結論を出さなければなりません。
「自分がどのような論理で結論を出したか」で、その後の状況が変わります。
結論自体はさほど重要ではありません。その結論に至った理由が大事なんです。
行為そのもではなく、その行為をするに至った思考の過程がその後の人生に影響を及ぼします。
極論・・・自分の論理的思考能力を鍛えて認識を変えることができれば、「運命は変えられる」になります。
まぁ・・・仏さんに護られているような人を観ると、
その人の思考形態・認識をガラリと変えるようなご縁と出会うことによって、
いい方向へと進む場合も多いです。
ただし、「これも何かの縁」の縁には良縁と悪因縁があることをお忘れなく。
これを知らない人も多くて、悪因縁に引っ張られている人も多く観ます。
良縁成就(←男女関係限定ではなく)は、日頃の心しだい。
信心厚いと、自身は気づかなくとも色々な場面で効いているんですよね。
(もし気づいて「ありがとうございます」と言うと、仏さんはニコっと微笑んでくださいます。)
仏さんの声を直接聴けるようになる必要なんかないんです。
ちゃんと実生活の中で、その声を代弁してくれる人や状況に巡り合えますので。
無理にこういう世界に足を踏み入れる必要もありません。(だから誰にも言わないし誘わないという言い方もできる。)
最後、面白い話。
カンの鋭い方は、俺が書いている「観える」って言葉にある種の特異性を感じていると思います。
視覚的に見る(視る)とは別の事を言っています。
と、いきたいのですが、長くなったしもう寝るので続きはまた今度。