ちょっと重い話になるかもしれませんね。
日曜の「エチカの鏡」は余命がテーマでした。
とてもよく考えさせられるテーマで、思わず観てしまいました。
と言うのもここ数年、
「いのち」に関わる様々な問題を取り扱ってきた中で、ずっと考えさせられています。
最初のうちは感情的なものが優先しまって、
「いのち」と向き合い、思考することから逃げてきました。
考えたくない・・・観たくない・・・知りたくない・・・
でも、人生そのものに関わる本質的な問題だし、このままではダメだと思いました。
ましてや縁あって自分がそういう問題と深く関わりあう立場(というか状況)にあるなら、
1つ1つの問題に対して真剣に自分なりの答えを出さなければいけないと思い、考え続けています。
と、そういう話をする前に順を追って色々と説明しなければならないのですが・・・
今日は、「いのち」を考える上で はずす事のできない宗教観についてちょこっと。
全ての人は何かしらの宗教観を持っています。
今、日本人に多いと言われる無宗教というのも、それはそれである種の宗教観です。
別にそれがいいとか悪いとかではないんですけど。
世界には様々な宗教があり、思想も様々です。
思想を説くのは何も宗教だけではなく、教育もその1つです。(ある意味恐い思想の植えつけ)
どうも日本の「自我の確立」を目標とした教育方針だと、
宗教は弱いものが信仰するものだ、とか
(なぜなら「宗教=自分以外の力に助けを求める=弱い→つまり自我がない」という論理になっているから)
特定の宗教を信じることには抵抗がある、と言った考えになってしまいがちです。
「立派に一人前になったねー」というのは「自我が確立できたねー」ということです。
それはそれでいいんですよ。日本の社会で生きていく場合には必要なので。
日本では、共通認識を大切にするよう教育されてきました。
周りとの調和を合わせることや、空気を読む というとわかりやすいかも。(それもそれでイイ)
対して、欧米では「あなた自身はどう考えるのか?」といった自己主張が非常に重要視されます。
その人の考え方(論理)が大事なんです。
試験問題で比較してみます。
まず日本。
日本では、知識を詰め込み、解き方を覚える・・・これが試験で点を取る重要な要素です。
「~は何か?」とか「答えを導き出せ」ってやつですね。
つまり、あらかじめ答えが用意された問題に対して、その正しい解答を導き出すことが重要視されます。
極端な言い方をすれば、○か×か、どちらかしかない、
いわば二元論と言われる論理構造になっています。
人生で○か×かで答えを探したあげく見つからないような問題にぶち当たった時、うまく対処できるんでしょうか。
これに対して、欧米では
もちろん知識は必要ですが、その知識があった上で
「~について述べよ」とか「論述せよ」
これが重要視されます。
つまり知識そのものにそれほどの価値はないんです。
論理思考する、哲学するというのに、大人も子どもも関係なければ、
いわゆる勉強ができるというのとは全く持って関係ないです。
そもそも学歴なんてのは、その人の本質!
つまり「人生の諸問題にどう向き合って、どういう風に考えるのか」とは全く関係ないんです。
ということで、文科省(とか教育委員会)の指導の下に先生になろうとは思わない男がここに1人。
問題の解き方を教えるのは好きなんですけどね。
塾講師とかなら興味あるけど。(まぁそもそも人見知りだし)
「模範生徒」とかって言葉もありますが・・・
日本の教育が築き上げてきた、共通認識として「いい」とされているのが、果たして「いい」のか・・・?
重要なのは・・・教師が眼を向けなくてはいけないのは、
その子の表に出る(「正しい」とされている)行動や発言そのものではなく、
その子自身の「考え方」や「論理」の本質を観ることができるかどうか。。。
ネガティブな考えから、模範解答的な行動や発言をしているのであれば、それは危険です。
まぁ、いろいろ好き勝手言ってしまいましたが最後に・・・
なぜ、明治以降に日本政府は「政教分離」させる必要があったのか?
政教分離というのは、社会で習ったと思いますが宗教を切り離した上で政治を行うというものです。
政府は教育を通してどのような人間を育成したいのか・・・?
実はここに非常に面白い問題が含まれているんです。
憲法では「もっともらしいこと」が書いてありますけどね。
と、疑問を投げかけたところで今日は、おしまい。
果てしなく長くなりそうだ・・・

