天地創造:科学との調和 | 大野純司のブログ

天地創造:科学との調和

 旧約聖書は、天地創造の物語から始まっています。その記述は、理論物理学や進化生物学と調和するものなのでしょうか、それとも、相反するものなのでしょうか。

 科学がだんだんと多くの疑問に答えていくにつれ、すべての疑問は最終的には科学的に説明することができると考える人が増えました。特に、進化論がその考え方を助長し、聖書の最初の書物である創世記1章の創造の話はただの神話に過ぎない、と多くの人が考えるようになりました。私も高校1年生の時にクリスチャンになるまでは、そう考えていました。

 私はブログで聖書の解説をしたことはありませんが、クリスチャンを含め、多くの方が創造の話を誤解しておられるので、説明させていただきたいと思います。

 聖書が科学の教科書でないことは誰もがわかっているはずです。聖書は、創造主について教えるものではあっても、宇宙がハウ(どのように)できたかを教えるものではありません。逆に、科学は、どのようにできたかを説明できても、その背後にあるかもしれない第一原因や目的を説明するものではありません。

 聖書に限らず、文書というものは、どの時代のどの文化の人が読んでもわかるように書くことは困難です。聖書は、当然、聖書が書かれた時代のユダヤ人が読んで解るように書いてあります。現代人は、聖書を読んで進化論と比べますが、それは時代錯誤です。当時の人は、そんなことを考えながら読みはしませんでした。大切なのは、当時の人がこれを読んでどう理解したかです。

 創造の話に出てくる具体的な内容は、当時の世界観を反映しています。例えば、創世記1章7節は、「神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた」とあります。これは、現代の人が読むと、何の事だろうと思うかもしれません。大空の上の水というのは雲のことではないかと思うかもしれませんが、当時の中近東では、空の上に海のようなものがあると信じられていました。当時の読者はこれを何の抵抗もなく読み過ごしたのです。

 肝心なのは、聖書と当時の世界観の相違点です。今から千年後、考古学者が図書館を発掘し、トランプ大統領の伝記を2冊発見したとしましょう。一つは彼の反対派、もう一つは賛成派の人が書いたものだとします。トランプ大統領がいつどこで何をしたかという詳細は2冊とも似ているはずですが、大切なのは違いです。どう違うかを見て、二人の著者の意図をくみ取ることができるのです。

 では、この創造の物語は、当時の世界観とどう違うのでしょうか。まず、神が被造物の一部ではないということです。当時の宗教は多神教で、神々は自然の一部でしたが、聖書は、神が自然の創造主であることを明確にしています。

これは、1章21節を見てもわかります。「神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物をそれぞれに、また、翼ある鳥をそれぞれに創造された。」

 ここに出てくる怪物とは、クジラを指していると思われますが、当時の人から見ると、これはまさに怪物で、神扱いされていたようです。聖書は、鳥類や爬虫類などの大まかな分類をしていますが、特別に名指しされている種はこれだけです。当時の人は、これを読んで、あの怪物も神の被造物なのだ、と理解したのです。

 もう一つよく問題にされるのが、神が6日で天地を想像し、7日目に休まれたということです。1日24時間と解釈すれば、明らかに科学と矛盾しますが、果たしてそうでしょうか。6日間による創造に関しては、ここ以外に、もう一か所聖書に出てきます。そこに何かのヒントがあるかもしれません。

 モーセの十戒は、エジプトで奴隷になっていたユダヤ人が解放されたときに与えられたものです。その一つが安息日で、週の終わりの日は、家族も奴隷も外国人も家畜も、休ませてあげなければならないというものです。ユダヤ人が日曜日ではなく土曜日に休むのはこのためなのですが、この戒めは、他の戒律と違って、かなり長い注釈がついています。その一部をご紹介しましょう。

 「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」(出エジプト記20章11節)

 もちろん全知全能の神が休む必要などないのですが、これは擬人法です。ユダヤ的論法の一つで、神でさえ休まれたのだから、我々人間はなおさらそうするべきだという論理です。お前たちは、エジプトでは休みなく働かされていたが、エジプトを出て約束の地に入ってからはそんなことをしてはいけないという、当時の労働基準法のようなものです。大切なのは6日間で創造したことではなく、7日目に休まれたことなのです。

 ほかにも、この創造の話が科学的知識を教えるためのものではないことがわかる理由があります。創世記1章の創造の話では、動物が創られてから最後に人間が創られます。しかし、2章のアダムとエバの創造の話では、まずアダムが創られ、動物が創られ、動物の中にはアダムにふさわしい助け手がいなかったので、アダムのあばら骨からエバが創られました。

 アダムは、エバを見てこう言います。「これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう。まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」「アー」というのはヘブライ語の名詞の女性形で、イシュ(男性形)の女性形はイシャーなのです。エバこそが自分の片割れであることを表した、ロマンチックなストーリーです。男の罪に対する罰として女が創られたというギリシャ神話とは、大違いです。

 聖書に限らず、すべての文章は、文字通りに解釈するべきところと、そうでないところがあります。詩編93編1節に「まことに、世界は堅く立って、動かされることはありません」とありますが、これが天動説の根拠として使われたこともありました。これは詩ですし、これを文字通り解釈するべきだと考える人は、今はいないでしょう。

 創造の物語も、21世紀の知識人として読むのではなく、当時の人が読んでどう思ったかを考えるべきです。神話に過ぎないと考える方も、神話だから科学的ではないと考えるのは当然ですが、神話という文学的ジャンルに属しているものには何の真理もない、とは思わないでしょう。