愛媛丸衝突事件10周年 | 大野純司のブログ

愛媛丸衝突事件10周年

先日、寒い日本に里帰りして知ったのですが、今年は、ハワイ沖の愛媛丸の事故からちょうど10年です。私の里が愛媛県であるというだけでなく、私は、個人的にも、この事件に関わりました。事故が起きた日、私は市内のある救急病院に通訳に行くように頼まれたのですが、普段と様子が違いました。必要なら呼ぶから待合室で待機するようにと言われて、私は、必要だから呼んだんじゃないのと首をかしげながら待合室に行って、テレビを見ていました。

5時のニュースが始まるや否や、私は、自分が何のために呼ばれたか、そしてなぜ病院の対応が普段と違うのか、分かりました。後で知ったことですが、病院には日本領事館の職員が呼ばれて、彼らが通訳をしていたのです。まもなく、まったく別の用でたまたまハワイに来ていた読売新聞の記者から質問攻めに会いました。もちろん私は何も知りませんでしたし、知っていたとしても、通訳をして知った情報をマスコミに流すことはできません。

それから数週間、いろいろな形でこの事件に関わりました。遺族の方々と海軍との最初の会談では、終わって部屋を出たとたん遺族の方と間違えられて、またまたマスコミに囲まれてしまいました。しかし、他の何よりも、一番大変だったのが、海軍の査問会議の公式通訳の仕事でした。3人で交代しながらの仕事でしたが、その中の一人は、初日の朝、緊張の余り嘔吐したほどでした。

日本から海上自衛隊の方が来られて、あらかじめ、いろいろと潜水艦のことや、専門用語を教わりました。実際に潜水艦にも乗って勉強もしました。しかし、どれだけ準備しても、本当にうまく通訳できるのだろうかという不安は消えませんでした。ましてや、自衛隊のお偉方に、間違った通訳をして国際問題にならないようにしてくださいなどと注意されると、私のようなのんきな人間でもプレッシャーを感じたものです。

ある通訳は、事故直後に「うねり」を「波」と訳してしまって、大変な誤解を引き起こしたそうです。愛媛丸の船員が、なぜ潜水艦はハッチを開けて救助活動をしなかったのかと海軍側に尋ねたところ、うねりが高かったから開けられなかったと答えたのだそうですが、それを「波が高かった」と訳したのだそうです。波は小刻みに来るものなので、少々高くても潜水艦の中に入る水の量はたいしたことはありませんが、うねりは幅が広いので、ハッチが水面下にある時間が長く、大量の水が入ってしまうのだそうです。船員たちは、波は高くなかったと主張し、海軍がただの言い訳をしていると思ってしまったのです。

そんな間違いを犯しては大変なことになるというプレッシャーの中での通訳は、本当に疲れました。ハワイのもう一人の通訳の方と、日本のある同時通訳の学校の先生と、3人で通訳しましたが、当時、同時通訳をした経験がほとんどなかった私にとっては、大役でした。最後のワドル館長の証言が終わって、私はほっとしたのですが、数人のご遺族の方々が泣いておられたのを覚えています。

この事件は、本当に偶然が重なって起きた事件でした。あの大海原で、潜水艦が急上昇して、たまたま通りかかった漁船に当たる可能性など、ほとんどありません。民間人が乗っていて邪魔になったこと、浮上を急がせて漁船のエンジンの音源の位置判断を誤ったことなど、いろいろな原因はありますが、まさかという油断があったに違いありません。

このような人間の過ちを、キリスト教では罪、仏教では業と言います。日本に伝わったのは、お釈迦様が亡くなってから何百年も経ってできた大乗仏教で、業に対して余り厳しくはありませんが、釈迦の教えをより忠実に伝えていると言われる小乗仏教では、キリスト教よりも厳しいものがあります。業の処分ができなくて、人間は輪廻を続けると言うのです。釈迦は、3年前に川に流したくびきを目の見えない亀が見つけるまで、業が赦されることは無いと言ったそうです。また、花崗岩を柔らかな布で年に一回拭いて、石が磨り減ってなくなるまで赦されないとも言われたそうです。

しかし、神は業の赦しの道を開いてくださいました。ナルニア物語のライオンが、それを表しています。ライオンが、兄弟たちを裏切ってしまうと言う大きな過ちを犯した少年を助けるために、魔女と取引をして、殺されに行く場面があります。この少年はこんな罪を犯してしまったのだから、赦されるべきではない、自分の虜であると言う魔女に対して、では、自分がその身代わりになって死んであげようと申し出るのです。ライオンは、キリストを象徴しています。キリストが私たちの身代わりになって死んでくださったからこそ、私たちも赦されるのです。人が何人も亡くなるような大きな業を犯してしまったとしても、神はそれを赦します。神に赦せないほど大きな業はありません。