最近思う事は
死ななければいけない物
生きなければならない物
どうもこのブログを読んでくださり有難うございます。
今回のブログは賛否両論とあると思いますので
良ければ立ち読み気分で。
では、参りましょう。
殺処分をされる犬や動物達
可哀想だと思う気持ちは充分に理解ができる。
だがふと思う。
その檻の中に人間がいたら?
その檻の中は虫だったら?
生と死を正義で語る人が居る。
当然である。
のか?
義理、人情、道理、哲学。
そこに生と死はあるのか。
時と我の話だと自分は理解している。
死んではいけない人間はいると思う
死んだ方が良い人間も居ると思う。
その反対で生きてなきゃいけない人間もいる。
しかし
それは個人の世界の目線。世界。
世の目線で言えば
そう言った人間が居るから良し悪しを覚え
規律が出来ている。
そしてそれは終わらないであろうと思う。
なぜならば
生まれた時から完璧な老人の考えではないからだ。
そして失う事を知らないからと
死とゆうものを誰1人として
認識はしていないから
絶対的な終末
これだけの人間が1つの籠の中で生きているのだから無理もない。
育ちも違う。
漫画の様に皆んな理性がしっかりしても居ないだろう。
話は戻るが
犬や猫など
何も悪い事をしていない生まれるがままに生まれ
殺される運命に決まった生き物。
可哀想
何で殺されなくちゃならないの
殺す方も思ってるけど理由もわかっている。
助けなきゃいけない
わかるよ。
ただ
私は
何も思わない。
次は幸せな物に生まれ変わるんだよと
何故なら
人や生き物は死ぬ。
死に様がどうあれ皆平等
神の慈愛ではないかもしれないが
人の様にそこまで意識はない。
アナタは檻の中が犬や中ではなく虫でも可哀想と思いますか?
人を噛む犬や、とんでもない迷惑をかける猫や猪
人を殺した人
同じ檻に入れられていたら
誰だって何にも殺したくは無い
誰だって誰も傷つけたくは無い
だけど皆色んなきっかけが有り
知らない事が有り
その結果でそうなっている。
君にそれが全て背負えるか?
一瞬の慈愛を注ぎ
拾えるか?
出来ないなら
もっと自分の見える命を惜しみなさい。
出来ないならせめて、手を合わせなさい。
中途半端な義が苦を長引かせる
時の中で生と死は幾つも有る。
心の生と死
信じると生きるが裏切れば死
それが出来ないのであれば
真実に生きなさい。
とゆうのは
受け入れるとゆう事
我を無くすのではない
緩やかに慈悲を与え
願い、憂い、祝う。
可哀想。
この言葉は優しさと厳しさを自己と相手に相対して現れる感情。
その感情を悟った時に感謝しなさい。
今アナタが生きてこれた周りへ過去へ
私がもしこの檻の中に入れられて居たら
運良く私を預かってくれる人がいるのか
貴方は檻に入れられる事なく生まれ
育っている。
忘れないで。
何かのために何かがある。
死んで良い人間も
生きていなきゃいけない人間も
いない。
ただどう生きるかどう死ぬか
だけであるのだ。
貴方が可哀想だと思う物は
貴方に何か大切な事を伝えようとするモノ。
噛み締めて
目を閉じて
心で
助けてあげて。
貴方の心と相手の心。
伝わらなくて良い。
貴方がそう思う事が
1番大事な、大切な事だから。