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迷えば原点

医療法人翠章会 すまいる歯科 理事長・山村洋志明が書き綴ったブログです。

(注)今日のお話は、野球にある程度詳しい方向けに書いてありますので、ご了承くださいませ。



元ヤンキースの松井秀喜選手が甲子園で全打席敬遠をされて敗北した試合はあまりにも有名ですので、みなさんご存知でしょう。
今年の夏の地区予選決勝で、20年ぶりに「全打席ほぼ敬遠」の戦術がとられた試合がありました。
どうも、「敬遠」のテーマになると、みなさん渋い感じになりますので(笑)、今日は、このアンタッチャブルなテーマについて書いてみようとおもいます。
はじまりはじまり(ぱちぱち)



いろいろな野球の勝負の中で「敬遠」によって、勝負の分けれ目がついてしまったときに、「敬遠の是非」については、よく議論になります。

そういう時、高校野球だと、「敬遠は卑怯」だとか、「高校の教育としてはいかがなものか?」だとか、「勝てばなにしてもいいのか?」とか、いわゆる<敬遠否定論>が噴出します。

その反面、「ルールにのっとっているんだから、なにがいけないのか?」という<敬遠擁護派>も同時に現れますね。

その両者の議論を聞いていると、どちらの意見も正しいんですね。これが。
この「敬遠の是非」というものについては、明確な答えが出にくいのかもしれせんね。

しかし、私も野球に携わって30年近く経ちますので、その経験も含め、この問題を正面から考察してみたいとおもいます。(がんばるよぉ♪)



まず、「敬遠はルールに従った、ルールの範囲内の戦術であり、非難を受ける事はない」という考え方(敬遠擁護派)についての考察です。

まず、私も「敬遠」はれっきとした「戦術」だとおもっています。
よく、否定派の方は、「敬遠で勝負をしてくれなければ、選手の力の出しようがないじゃないか!それはかわいそうだ!」というご意見をよく聞きますが、これは少し偏り過ぎなのかなぁっとおもいます。

なぜなら、例えばサッカーでメッシみたいな<超点取り屋の選手>がいたときに、2~3人でその選手を囲んで、プレーをさせない様にするわけです。そうしなければ、その選手に点をバンバン入れられてしまうからですね。

「2~3人でその選手を囲んだら、自分のプレーができなくてかわいそうじゃないか!」って、言う人は、たぶんいないはずです。
バスケットボールでも、同じ事です。
敵チームの圧倒的な中心選手はリスクを負ってでも、つぶしにいくのが勝負の世界です。
もちろん、そのリスクを負う事で、他の選手が通常よりも有利になります。
サッカー・バスケットで言えば、他の選手のマークが少なくなる。
野球で言えば、敬遠でランナーがたまっていくことで他の選手の打点のチャンスが増えるわけです。

これって、敬遠していることと、2~3人で囲んでプレーさせない事と本質的に何が違うのでしょう。

「いやいや、ものすごい選手なら2~3人に囲まれても、なんとかするよ!」って言う人もいるかもしれませんが、サッカーの詳しい友人に聞いてみると、とても3人で囲んだらプレーは満足なプレーはできないそうです。

人対人がぶつかりあい、対戦する他のスポーツでも同じ事が行われています。

もしも、敬遠が存在してはいけないのなら、点取り屋のスーパースターに自由にシュートを打たせないといけない事になってしまいます。点取られまくりです(苦笑)
「敬遠は高校教育に良くない」だとか、「選手がかわいそう」だとかという論理は実は勝負の本質から大きくずれてしまってます。

だから、敬遠が正しいとか、間違っているとかは、勝負の世界では全く議論になりません。


ちなみに、よく敬遠の是非の議論のあとに、スピンオフになりますが、「敬遠するんじゃなくて、外角低めを投げて長打を打たせない様にすれば良い!」とおっしゃる方がいますが、これも「本質」的には同じ事です。
なぜなら、野球をやっていた人ならわかりますが、外角低めを投げ続けたら、ライト前ヒットは打てますが、長打は打てません。
投手的には、少しでもインコースに甘く入れば、長打を打たれる可能性があるので、結局は外角低めの出し入れだけをしますので、四球かライト前ヒットです。

これは、本質的には敬遠している事と同じです。
勝負する意志がないのですから。
だから、その戦法は見た目が良いだけで、やっている事は敬遠と同じですから、これも議論になりません。




さてさて、本題です。
では、「敬遠」っていったいなんなんだ!という問いに関して、私には明確な答えがあります。


敬遠の効果は、「目標と状況によって得られる効果がちがう」という事です。


・・・・がんばって、ついてきてくださいね!(笑)


ざっくりいいますと、強打者に対して、「全打席敬遠」という選択肢を選ぶ事は、その試合を勝つ事はできるかもしれない。甲子園にでることはできるかもしれない。
でも、全国優勝はできないのです。

わかりますかね、この感覚。

最初にも書きましたが、野球に携わって30年。
プロ野球、メジャーリーグ、高校野球、社会人野球、いろんな形の野球を見てきました。

その結論として、敬遠を多用するチームが本物の強さを持ち合わせているケースがとても少ないという事なんです(まれに本当に強いチームもいますが、確率論的には、稀少です)


結局のところ、どのようなスポーツでも、栄冠を手にするのは、ガチンコの勝負をくぐり抜けてきたチームなんです。
勝負事にはどうやったって、逃げる事ができない状況というものは存在します。
それに、立ち向かう事で負けてしまうかもしれませんが、栄光へとつながる経験を積む事ができるかもしれません。
それは、目標設定と成長設定が内向き、つまり、自分が基準となっているのです。
自分が成長していくための条件をどのように設定して努力・勝負していくのか?
実は、この考え方は非常に重要なのです。

でも、全打席敬遠をするということは、目標設定が、「相手」になっていることになります。
もう少し簡単に言えば、強打者に対して、全打席敬遠を行い、勝ち上がったとしても、全国大会になって、全打席敬遠したクラスの打者がたくさんいるチームと対戦したら、「その時はどうするの?」って話なんです。
相手だけを見て、勝負をするということは、こういう事になるのです。
そういうチームが、勝ち上がっていく事は非常に難しい事でしょう。


高校野球とは、そこで若者の人生のキャリアを終わらせるわけではなく、その先の若者の未来を創造することなのです。
全国優勝する事、大学野球に進む事、社会人野球にすすむこと、そしてプロ野球選手になること。
その、未来への手伝いをしてあげることが、高校教育なのだと私はおもいます。

だって、<自分の夢をつかむために、逃げるわけにはいかない勝負>はこれからの人生の方がはるかに多く存在するのです。
時には必要かもしれないが、すべて<敬遠>していたら、本物の力を身につける事はできないのです。

現時点で分が悪い相手と勝負をしないという選択肢を常に選ぶという事は、将来にとって、素晴らしい経験にはならないとおもう。
100歩譲って、「将来は勝負する!、力がついたら勝負する!」という考え方であるなら、どの時点から勝負するのか?
勝負というのは負けから学ぶ事が多い。その負けをしないようにする思想では成長力は鈍化してしまうのではないだろうか。



しかし。


しかしである。(笑)




高校球児全員が、プロ野球選手になるわけではない。
むしろ、ほとんどの選手が野球とは関係のない仕事に就くのだろう。
いや、99.9%はプロ野球にはいかないのだろう。

だとしたら、遊びたい盛りの青春をすべて練習に費やし、その青春の思い出として、「甲子園の切符を勝ち取る!」「なんとしても1勝する!」という証を手に入れることは、そんなに悪い事なのだろうか?
確かに、勝負を避ける事で成長はなかったとしても、「結果」を手に入れる事で自分のがんばりを褒めてやれることができるのではないだろうか?
将来、その若者が野球とは関わりのない職業に就いたとしても、自分の望む結果を得たその自信が、辛い仕事をがんばりきることができる精神力を手に入れる事ができるのかもしれない。

だとしたら、成長よりも、自分たちががんばった証を得るために、サッカーでいうところのスーパーな選手を2~3人で囲んで自分のプレーをさせない、つまり野球で言うと「敬遠」を選択しても、それをいったい誰が否定する事ができるのだろうか?



私なりの結論。


「敬遠」とはルールにのっとった戦術です。
「敬遠」をすることで、勝利に近づくことはできる状況はたくさんあります。
でも、その戦術を安易に選択するチームが最高の栄冠を手にする事は少ない。
30年間で、その戦術を多用する最強チームを私は見た事が無いし、そこから名選手がでてきてもいないだろう。

でも、全員がプロ野球選手になるわけではない。

将来、自分の子供に「とうちゃん、甲子園に出た事があるんだぞ!」
それを誇りに思っている元選手だってきっと多くいるはずだ。


本人達が、何のためにやっているのかが、明確であれば、ルールにのっとった戦術を外野がとやかくいうことはないのである。

それぞれに、青春があり、
それぞれに、勝負がある。

「自分は何のためにやっているのか?」
それが一番大事なのです。

その答えによって、選択肢は異なるのです。

トップ選手になりたければ、全国優勝したければ、敬遠を多用していては無理なのです。
逆に、甲子園にでたければ、この試合の勝利という結果を得たければ、敬遠してでも勝負に徹するべきだ。




「敬遠の是非」など、当事者じゃなければわからんのです。
当事者でなければ、この問題を、「否定すること」も「肯定すること」もするべきではないのです。


彼らの汗は、何もしていない私たちが、クーラーの効いた部屋で語れるほど、安い汗ではないのだから・・・




今年も、熱い夏の甲子園大会が始まります。


みんな、がんばれ!!