(注)今日のブログは、モータースポーツの「F1」に興味がない方には、意味不明なブログです。
ご容赦ください。
こんばんは。
山村です。
明日は、日曜日でお休みです。
少し、朝寝をして、2時間くらい走りたいと思います。
さて。
今日は、ビデオ屋さんに行ったら、最新ランキングに、
「アイルトン・セナ」のドキュメント映画がランクインしていました!!
古いものではなく、最近映画になった、ドキュメントです。
早速、レンタルして、さきほど見終わりました。
涙が止まりませんよ。
ほんとに、涙が止まりません。
1994年5月1日
僕を含めて、「F1」を愛する人間は、
「何が一番大切なのか?」
「失ってはいけないものを失ったらどんな気持ちになるのか?」
「人の命を犠牲にして得られるエンターテイメントなど存在しない」
ということを、痛いほどに理解しました。
理解したはずなんですけどね・・・
それなのに、たった17年過ぎただけで、もう感覚がマヒしている。
人間とは怖いものですね。
のど元を過ぎれば、熱さを忘れてしまうのです。
1992年
ナイジェル・マンセルの圧勝
1993年
アラン・プロストの圧勝
1994年
アイルトン・セナがウィリアムズに移籍
誰もが、3年連続の、シーズン中盤での年間チャンピオンの決定を予想しました。
そりゃそうです。セナだもん。
そうなると、変な力が動き始めます。
変な政治が介入してくるんですね。
本気のプロスポーツをエンターテイメントにした瞬間に、歯車はかみ合わなくなるものです。
そんなこと、わかりきっていたのに・・・
1994年・・・
前年度まで装着できていた電子機械制御のパーツの使用を禁止するレギュレーションになりました。
世界中のF1ファンが、それにより、「緊迫したレースがみれるのではないか?」と、期待しました。
それは、僕たち大衆がエンターテイメントを求めたからです。
でも、その結果は、
アクティブ・サスペンションを失ったマシンが・・・
トラクションコントロールを失ったマシンが・・・
行きつく先の未来は・・・
320キロからの激突。
それが意味するものは、明白でした。
エンターテイメントという「自分が楽しみたい」という理由だけで、
「アイルトンセナ」という不世出の天才を失うことになったのです。
世界中が涙にぬれました。
当時、浪人生だった僕は、リアルタイムで放送を見ていませんでしたが、同じ寮で放送を見ていた、F1ファンの友人が、僕の部屋の扉を、ガンガン叩いて、知らせてくれたことを今でも覚えています。
17年たっても、人間の本質は変わりませんね。
シューマッハが独走したら、それを阻止しようとして、どこからともなく政治力が発揮されて、接戦になりました。
何年も繰り返されました。
そのたびに、僕たちは作られたエンターテイメントで楽しもうとしていました。
今年のように、ベッテルが独走しそうならば、それを阻止しようとする流れになる。
同じことを繰り返すのか!?人間は!?
エンターテイメントとは、いったいなんなのか?
作られたエンターテイメントに、酔いしれる僕たちはいったい何なのか?
大衆の、一瞬の興奮や快感のために、犠牲になる命があってはいけない。
それは、1994年の時に、全世界の人間が味わったはずだ。
でも、F1に限らず、今の世の中は、経済との関係が切っても切り離せない関係にある。
視聴率が上がらなければ、利益が上がらなければ、存続すらできない。
だとしたら、作られたエンターテイメントを用意するしかなくなる。
誰かを犠牲にしても、価値を見出そうとする。
そんな「価値」に本当の「価値」など、ないんですけどね。
「人は、変わらない・・・」
これが本質だとしたら、なんとも悲しい結論だ。
ポピュリズムに流されてはいけない。
大切なものがなんなのかを忘れてはいけない。
一瞬の快楽や、エンターテイメントを求めるがゆえに誰かが犠牲になってはいけない。
人は忘れる。
熱さを忘れる。
絶対に忘れてはいけない感覚がある。
命を賭して、教えてくれた人に対して、それは冒涜である。
ひとりひとりが、しっかりと。前を向いて。流されずに生きよう!!
何が一番大切なのかを考えれば、0.1秒で、答えは出ます。
「自分がどう生きたいか?」じゃないぜ!
「自分がどう楽しみたいのか?」じゃないぜ!
「自分らしく生きる???」
なんじゃそれは。
大事なのは、
「大切な人を守りたい。愛する人達の期待に応えたい」
そう思う生き方が、すべての基本なんです。
自分じゃないぜ。
ほんとに。
自分が中心になった瞬間に、すべてが崩れるぜ。
「愛する人を幸せにできるのは、僕しかいません。
そして僕を幸せにしてくれるのは、僕が幸せにした人たちです。」
自分を中心とした感覚は、自分がマヒしていることにすら気づけなくなります。
常に刺激を求めるし、その思いは上昇し続ける。
「成長」という言葉を「錦の御旗」にして、独走を始めるんです。まわりがついてこれないくらいに・・
でも、実は、近くにいる人にとって、あなたがそばにいて笑ってくれるだけで、幸せであることも多いんだ。
今回はF1をたとえにしましたが、確かに、チャンピオンシップが最終戦までもつれるということは、観客にとっては面白いかもしれない。
でも、その満足を得るためにセナのような犠牲を払わなければいけないのなら、そのエンターテイメントに価値はない。
人は失ってからその大切さに気づき、そして、しばらくするとその気づきも忘れる。
だから、失くす前にそれに気づくことができたら、幸せだ。
自分の考えを相手に理解してもらうことは大変むずかしい。
このブログもむずかしい。
でも、相手の考えを、価値観を理解することはできるはずだ。
それは決して、迎合ではない。
相手を想う。愛する。慮る。
大事なことは、自分の意見や希望、理想や、快感、興奮などが、誰かの犠牲の上に成り立ってはいないかどうかを常に意識することだ。
失ってからではおそすぎる。
笑顔で生きよう!
愛する人のために!
2011年5月1日