みなさんこんばんは!
岡崎市・豊田市の歯医者 すまいる歯科の山村でございます。
今日はめちゃくちゃいい天気でしたが、風もまた強かったですね。
洗濯物が飛んでいってしまった方も多かったのではないでしょうか?
そんなこんなで今日もはりきっていきましょう!!
江戸時代末期。
でました!(笑)
山村お得意のシリアスパターン(笑)
でも、一生懸命書くので、みんな読んでね(泣)
日本が明治維新に突入する直前に長州藩(今の中国地方)には、『吉田松陰』という大先生がおられました。
『松下村塾』といった方が、わかりやすかもしれませんね。
高杉晋作、桂小五郎などの後の明治維新の立役者になる志士たちを育てた先生であります。
『武士』ではなく『志士』
『意志』を持つ者・・・
いい言葉です。
そんな私、山村は日本の夜明けを信じ、明治維新を全力で成し遂げた志士たちのことが本当に興味があって、小さい頃から、関連書物を読みあさっていたものです。
京都に遊びに行く時も必ず、慰霊館には足を運ぶほどです。
だって、その時代の人々は
「本当に熱い人間が多いんです!」
タイムスリップができるのならば、私はその時代に行って、彼らと話がしたい。
黒船が来航して、今の日本と外国との差をまざまざとみせつけられた彼らが、いったい何を思い、感じたのか・・・
日本に足りないものは、そしてどのように変えていったらいいのか?
行きてぇ~(笑)
そして、その吉田松陰先生は、自分の弟子たちに日本の進むべき道を日々、松下村塾で説くわけです。
松下村塾にはそんな日本を憂う若者たちが集まります。
そんな集まりを徳川幕府は見逃してはくれません。
反逆者の集団だと弾圧をはじめるのです・・・
その時代はまだ、徳川幕府の力がまだまだ強い時期でして、ついに吉田松陰先生は幕府に捕らえられてしまいます。
もちろん高杉や桂(後の木戸孝允)は必死で吉田松陰先生を救出しようと試みます。
しかし、何度かおとずれるチャンスも吉田松陰先生は逃げ出すことをしなかったそうです。
なぜか・・・
吉田松陰とは、全国的にも名が知れている稀代の英雄であり、その逸材を失うことが当時の日本にとってどれだけの損失になるのか。
まさに計り知れない影響があるわけです。
でも吉田松陰先生は逃げることを選ばなかった。
このまま、江戸にいったら間違いなく、今で言うところの『国家反逆罪』で処刑されるのは目に見えています。
でも、逃げなかった。
なぜなのか?
そのなぞに迫ることができる、一句が残っています。
吉田松陰先生の処刑される直前の「辞世の句」です。
これを読んだらびびりますよ(笑)
それは、こんな一句です・・・
『身はたとえ 武蔵の野辺に朽ちぬとも
とどめおくまじ 大和魂』
このうたの意味はこんな意味です。
『自分はこの武蔵の国で処刑されてしまうかもしれないが、私の日本の国を憂うその心は、決して失われるものではない。私の心(大和魂)は死してなおも日本全国を駆け巡るのだ!立ち上がれ!日本の若者たちよ!』
私はこのように解釈していますし、そして、そうであったと信じています。
史実をひもとけば、その後の長州藩の活躍ぶりはやはり、めざましいものがあります。
「蛤御門の変」で力を急速に失っても、なおも幕府軍に投降せず、戦い抜き、結果勝利する様をみれば、この吉田松陰先生が残した「大和魂」というものが継承されていっていたのですね。「死してなおも」です。
ちなみに現代も頻繁に使用されているこの『大和魂』という言葉が、文字として記録されているのは、この辞世の句が日本の歴史のなかで、一番最初だったそうです。
300年の時を超え、私たちが何気なく使っている「大和魂」ということばを世間に知らしめたのもまた、吉田松陰先生なんですよね。
一度、会ってみたい・・・(笑)
さて、そんな、日本の未来を信じて、死んでいった明治維新の志士たちが残した「大和魂」。
私たちは、それに恥じない思いを持っているのだろうか・・・
そして、私たちより、ずっとずっと未来の日本人が、私たちの時代を、今、私がしているように評価してくれる、そんな時代を私たちは作っているのだろうか?
「身はたとえ、武蔵の野辺に朽ちぬとも とどめおくまじ 大和魂」
みなさんはいかがですか?