子どもが学校に行けず、

青白い顔をして動けなかった時。

 

 

 

『かわいそう』

 

 

 

…口には出していないけれど、

心の中では思っていて。

 

 

 

 

この『かわいそう』の意味を調べると…

 

 

みじめな状態にある人に対して、同情せずにいられない気持であること。ふびんなさま。

 

 

 

…だそう(~_~;)

 

 

 

 

正に同情、自分がその子どもの状態であるかのように

身を切られるような思いでいました。

 

 

そんな身を切られるような思いでいるのって

すごく、わたしが、しんどく感じるのです。

 

 

じっとしているのも、子どもを見ているのも、

ツラく感じるのです。

 

 

 

 

 

 

そうすると、

どうするかというと…

 

 

その自分のツラい思いから逃れようと、

 

どうにかしようとすると…

 

 

目の前にいる子どもに、

元気になってもらう必要がある。

 

 

だから、

今、目の前にいる子どもを

変えようと、

 

親(わたし)が、動くのです。

(子どもは動けないので)

 

 

 

 

 

あーやこーや言ったり、

学校に手を回したり、

学校以外のことで何か興味あることないかなー?って

誰に頼まれたわけでもないのに探して、

 

 

『かわいそう』に思える子どもの周りを

めっちゃ…うろちょろするのです^^;

 

 

 

 

わたしから見える、子どもを、

『かわいそう』から、

『かわいそう』ではない状態にするのが

わたしの目的になります。

 

 

それって、

子どもの主観ではなく、

親(わたし)から見た、決めた

親(わたし)の主観的な状態。

(子どもの思いなんて関係ないから、見えなくなる^^;)

 

 

 

目的が決まると、

なんか不思議と、

水を得た魚みたいに、

パワーが出てくる(苦笑)

 

 

これがわたし(母)の役割だっ!って、

張り切る。

 

 

これでもかっ、

これでもかっ、

 

 

…って、

 

子どもが反応すること、

少しでも笑顔になることを

躍起になって見つけては、出すを繰り返す。

 

 

笑ってくれたら、

最高( ´ ▽ ` )

(これが、わたしの主観)

 

 

 

よし、次は…って、

 

 

子どもの気持ちに憑依していく…

(笑顔が欲しいから)

 

 

 

 

 

その時のわたしが決めたキャスティングは、

 

 

・『かわいそう』な子どもと、

・かわいそうな子どもを支える・助ける親(わたし)

 

 

 

この役割を演じ始めると…

 

 

親(わたし)が支えれば支えるほど、助ければ助けるほど、

子どもは『かわいそう』な子どもになっていく。。。

 

 

…というカラクリ^^;

 

 

 

 

わたし(親)の、

『かわいそう』という心から出てきた思いをもとに作り上げた世界は、

見事なまでに子どもを

もっと『かわいそう』な子どもに仕上げていきます。

 

 

親(わたし)が支えて、助けてあげなければ、

どうにもできない『かわいそう』な子どもに。。。

 

 

子どもが自分の気持ちを感じる前に

親(わたし)が、

喜怒哀楽を決めてしまう、とってしまう。

 

 

子どもは、

親(わたし)を、

喜ばせようと、

してしまう。

 

そう、させて、

そう、演じさせてしまっている。(と、思う)

 

 

 

親(わたし)は、

支えて助けている親(わたし)役に酔っていたのですが‥

(ツラいのしんどかったから‥、後から思えば^^)

 

 

 

 

なんか…おかしいぞ?

 

 

 

…と、なぜか気づいた(苦笑)

 

 

 

 

 

同じような子どもの状態を見て

どう思うか?

どう決めるか?は、

多分、人それぞれ。

 

 

そこから

行動が決まる。

 

 

 

見守る?動く?

 

 

なんのため?

 

 

 

不登校の親の会とかで、

似たような境遇のいろんな人の話を聞いていると…

 

 

 

「あ〜こういう見方もあるんだ」

 

 

…って、

人の視点がいただけて、

わたしの選択肢が広がりました。

 

活字で読むのとは、

ちがった情報の入り方を感じる。

 

 

 

 

 

今でも、子ども、

落ち込む時があります、

(そりゃ、そう^ ^)

 

 

でも今はそんな子どもを見て、

 

 

『かわいそう』

 

 

…とは思わなくなっています。

 

 

 

 

そう今在れるのは、

いろんな思いを経験したこと、

いろんな視点を得られたこと、から、かなあ。

 

 

 

 

 

 

 

悔しいこと、悲しいこと、

それで涙すること、寝込んじゃうこと、

 

それって、

その時の状態なだけで、

 

”点”だなあ、って思う。

 

 

 

そんな悲しみの”点”が、

ちょっと長く続く時もあるけれど、

 

悲しみの”点”でも、

同じ”点”はずっと続かない。

 

 

少しずつ、

見えないけれど、

”点”は変化していて…

 

 

 

 

時間が止まらないように

季節が変わるように

 

悲しみの”点”は、

見えない形を変えていく。

 

 

 

そんな”点”の変化を

じっくり自分で感じることって、

落ち込みを味わうことって、

大事だよなあ、と思います。

そこで気づくことが多いから。

 

 

 

その”点”を

『かわいそう』な子どもと

 

ある”点”の状態を見て形をガッチリ決めてしまうと、

 

 

子どもも親(わたし)も、

そのある”点”の状態に、

すでに過去になっているはずの状態に

縛られて、

囚われてしまう。

(止まらない時計を無理やり止めている)

 

 

 

 

すると、わたし(親)の目からは、

『かわいそう』なことしか映らなくなってしまい、

 

 

いいこともあるはずなのに、

同じものを見ても、

『かわいそう』を連想させる情報しか、

見えなくなってしまう。

 

 

『かわいそう』な情報を

ウォーリーを探せみたいに、

ピンポイントで探しては、

 

 

「やっぱりね、ほら、かわいそうやん、この子」

 

「絶対、わたしがいてやらなきゃ。」

 

 

…ってなり、

『かわいそう』な子どもと

それを支える親の物語を強化していっていた。

(役割の自分に酔っていたからなあ‥)

 

 

 

 

 

 

 

よくもまあ…

こんなわたし(親)の物語に

付き合ってくれていたなあ、

演じてくれていたなあ、とあれから数年経って

子どもに思うのです^^

 

 

わたしから見えていた

青白い顔をしていたのは、

子どもを通して見ていた自分だと思う。

 

 

そんな役割を体をはって

演じてくれていた

子どもに…

周りの方々に…

 

 

 

ほんま、

 

”ありがとう”しかない・:*+.\(( °ω° ))/.:+

 

 

 

 

『かわいそう』から、”ありがとう”へ♪

 

 

 

 

 

『かわいそう』と思っていたのは子どもじゃなく、

わたし自身に対してだった…っていう( ´ ▽ ` )♪

 

 

 

 

 

〜みんなちがって、みんないい♪〜