世界中で有名な絵本、といえばシルヴァスタインの「tree」は間違いなく五本の指に入るだろう
(あとはエリック.カールとかかな)
あらすじはAmazonに譲るとして、基本的に登場人物は少年と木だけ。
文章も絵本だから一行ずつか長くても数行くらいだし、そもそも中学英語レベルの単語数。
なので、却って訳すのが難しい。

少年はともかく、たった数行で木の性格を表さなければならない。

このお話は愛する事の切なさを語るものなので、切なさを日本語に変換するにあたって
村上春樹を選択してきたのは正しい。と思っていた。

絵本のページをめくるまでは。

絵本の訳の要となるのは後半部分の少年と木の会話のやりとり。

これまで少年、今は老年にさしかかった「彼」への思いをを自らの持つ者を差し出す事で表現してきた木が、初めて思いを言葉にして
少年に伝えるのだ。

この伝え方によって木の少年に対する「形のない思い」がどういった種類に属するのものなのかが
はっきりしてしまう。

村上春樹は原本に忠実に従い、「she」で表される木の性格を女性的なものにしあげた。

それも少年と年上とはいえそれほど年齢の差がないであろう女性風の語り口に。

こうなると木の抱える思いは「恋愛」というカテゴリーに寄せられてしまい、切なさは狭義的なものに
限定されてしまう。

つまり、「愛すれど振り向かず」の歌謡曲的もしくは演歌的な女性の切なさにすり替わってしまう。

木を女性とするのならば、年齢こそが重要だったのではないか。

少年が少年だったその時代に、まさに木として生い茂っていた彼女は、人間とは違う長い時間を森のなかで生きてきたに違いない。

「いらっしゃい、ぼうや」

という口ぶりは、せいぜい10歳かそこらの差である年上の女性が年下の愛人に声をかける声音を換起させる。

樹齢100年ほどの木としての口ぶりであれば、木の愛は恒久的な祖先の愛を表現できたかもしれない。
わたしたちの細胞の奥に眠る脈々と受け継がれてきた血の歴史に思いを馳せる事ができたかも知れない。

少年と木の物語を相対的な愛の物語に収縮させてしまった村上春樹の罪は重い。

みづからがぼろぼろになるほど与え続けかつ愛を受け止めてもらえなかった、女郎のような木の愛の物語を

わたしは愛をこれから経験する小さな甥や姪に読ませたくはない。