2002年3月20日IWA・JAPANプロレス石巻市総合体育館 | 佐藤淳一レフェリーブログ “きれいな水で泳ぐも人生。 汚れた水で泳ぐも人生。”

佐藤淳一レフェリーブログ “きれいな水で泳ぐも人生。 汚れた水で泳ぐも人生。”

2017年11月23日にプロレスレフェリーを引退しました。
現役時代は、沢山の方に支えられ、そして応援していただきありがとうございました。

IWA・JAPANプロレスは3月シリーズは東北にて興行を行います。

3月20日 宮城・石巻市総合体育館

3月21日 福島市体育館

福島大会はゴージャス松野氏のご当地興行。

石巻大会は、浅野社長が興行のノウハウを勉強した『岡田劇場』があります。

岡田劇場は160年も続く芝居小屋で映画館のほかに美空ひばりさんや北島三郎さんなどのコンサートやプロレス興行も手掛ける老舗の興行会社です。

浅野社長は山口百恵さんなどの興行で大成功をおさめますが、三波春夫さんの興行で大赤字になり東京へ夢を求め出てきます。

新宿に出てきたら、朝は定食屋、昼は喫茶店、夜はキャバレーのレジ係として寝る間を惜しまず働き資金をため、新宿に念願のお店を構えます。

労働基準法もビックリの勤務時間です(笑)

東京へ出てきた際の話で浅野社長の鉄板の話がありますのでご紹介します。

お金をあまり持たずにキセルで新宿に出てきた浅野青年。

新宿に着いたが行くあてもなく、ボンヤリしていると一人の男性が声をかけてきます。

男性「あんちゃん、アンパンいるか?」

お腹が空いていた浅野青年は迷わずに

浅野青年「ひとつください!!」

男性「はいよ。」

と渡されたのはビニール袋に入った液体。

浅野青年「何これ!?食べるアンパンだと思ったらシンナーだったのよ~(笑)」

アンパン=シンナー

今の若い人にはわかりませんよね(笑)

この大会で思い出に残っていることは、浅野社長に叱られたこと(笑)

いつものように会場準備をしてその後はグッズ売店準備にとりかかっていました。

パンフレットやTシャツを綺麗に机に陳列して、福袋を作ります。


IWAでは、福袋に古いパンフレットやTシャツ、ポスターなどを詰めて1袋1000円で売っていました。

この日は前売券の売れ行きも悪く、淳一レフェリーの予想では200~300人くらい。

『30個作っておけば間に合うだろう。』

と予想して福袋を用意します。

浅野社長が会場入りするといつもの如く

浅野社長「淳一!!」

と呼ばれます。

淳一「お疲れ様です。」

浅野社長「お買い袋いくつ作った?」

※浅野社長は、『福袋』のことをなぜか?
『お買い袋』と呼んでいました。
売店などでも「お買い袋いかがですか~」と声を出していましたので聞いた方もいると思います。

淳一「30個作りました。」

浅野社長「100個作れ。」

淳一「Oさんに聞いたら前売りが売れていないから30個で間に合いますよ。」

浅野社長「僕が100個って言ったら100個作って売るんだよ!!」

淳一「でも…」

浅野社長「あんたが経営者なわけ!!」

ムカつきながらも浅野社長の指示した通り、100個の福袋を開場時間前に作り上げます。

石巻大会は観衆650人発表でしたが実際には200人くらいと記憶しています。

浅野社長の計算でいくと2人に1人の割合で福袋を捌けないといけません。

浅野社長も淳一を叱った手前、100個の福袋を売らないと格好がつかないために一生懸命売りますがパラパラとしか売れない福袋。

売れたのは30個くらいでしょうか?

『ほれ見ろ。やっぱり30個で充分だったんだよ!!』

『売れ残ったら、嫌みの一つでも言ってやろう。』

↑淳一心の声です。

前半戦が終わり休憩時間になると浅野社長は奥の手を使います。

浅野社長「お姉ちゃん達、これ持って売ってきてちょうだい!!後でお小遣いあげるから♪」

と言われて渡された福袋を持って客席に売りにまわるのはJWPより参戦の倉垣翼選手と米山香織選手。

数分後には、

倉垣選手&米山選手「社長売れました~」

浅野社長「じゃあ、また売ってきて。」

と言い追加の福袋を手渡し、なんと100個あった福袋は完売しました。

浅野社長「淳一、商売っていうのはこうやってやるんだよ。」

とドヤ顔。

その後も味をしめたのか?

IWAの地方会場などでは、参戦した女子選手が休憩時間に客席を練り歩き福袋を売っていました。

売れ行きが一番大きかった選手は知名度抜群の三田英津子選手でした。