※いま、書き綴っている「がん闘病の回顧録」から時間が1年近く、早送りされてしまいますが、、
思い出せるうちに書き止めたいと思い、今日から時々綴っていきます。
これは、日本最大級のがん患者支援組織「5years」が出来上がるまでの実話です。
❏❏❏ 回顧録:2008年6月27日 東京・慈恵医大病院
この日、私は足首に入っている「ボルト抜去手術」のために整形外科に入院していた。
そして、讃岐先生と一緒に泌尿器科の入院病棟へ向かった。
がん治療で長く入院していたため、それがトラウマとなり、入院病棟である中央棟の中に入ると手足が震えたのだが、
この日、讃岐先生と一緒に入ったら、震えは無くなっていた。
その後、顔見知りの看護師たちと挨拶して、和やかにしていたら、讃岐先生が手招きしている。
私がそちらに行くと、
「大久保さん、このカンファレンスルームで待っていてください」
そう言われた。
この部屋も覚えている。
嫌な思い出ばかりだが、がんを告げられ、がんの転移を告げられ、2度目の手術を勧められ、、
私にとっては、辛いことを言い渡される裁判所みたいな場所だった。
いつもは、木村先生たちがここで待っていて、私と妻が後から入ってきた部屋だ。
それがこの日はどうだ。
私が、待っている番だ。
3分ほどしただろうか
ノックされ、どうぞと答えると
讃岐先生と一人の患者が入ってきた。
彼は髪の毛が無く、点滴棒を押しながらパジャマ姿で入ってきた。
ニコニコしている。
私はどんな顔をしていいのか解らず、戸惑っていた。
「このかたが大久保さんに会いたがっている○○さんです」
そう紹介された。
そして、讃岐先生は私たち2人だけにして部屋を出た。
正直、それからの記憶が全くない。
自己紹介をして、私も少し前まであなたと同じ抗がん剤で治療を受けていた、そういった自己紹介をしたはずだが、記憶が全くない。
かれは、終始にこにこしていて、そのことは讃岐先生から聞いているというようなことを返したはずだ。
この時は、私はまだ、ゴールドマン・サックスに復職できていない。
間質性肺炎の在宅治療を続けていて、時々、会社にリハビリ的に出社していただけだ。
だが、彼は私のことがとても励みになるという事を言っていた。
マラソンはおろか、ウォーキングすらできていない私だったが、
彼にとっては、がん治療を乗り越えた先輩だった。
褒められ、憧れられるのは、嬉しいというのではなく、なんというか、どう受け止めて良いのか?解らない不思議な感情だった。
なぜなら、自分はまだ、復職も出来ていなくて、がん再発を恐れている経過観察中の身だからだ。
いったい、どれくらい話したのだろうか?
15分なのか?それとも1時間なのか?
ただ、同じ治療を受けたがん経験者として、特段何も説明しなくても通じ合えることが安心できた。
「いまの、こんな自分でも、治療中の彼にとっては励みになるのか、、」
そう感じた出来事だった。