❏❏❏ 回顧録:2007年8月8日 東京・慈恵医大病院
ステロイド療法33日目
がん2度目の手術(後腹膜リンパ節郭清手術)の日。
※ 手術室のなかで、全裸にされた私は、手術台のうえで丸まり、背中を麻酔科医のほうに向けた。脊椎に、1本、また1本と、太い針を打たれ、自動麻酔注入器で麻酔薬が私の背骨の中に注入されていく。4本目の麻酔針を医師が脊椎に打つときだった。「大久保さん、次いきますよ」それが、最後の言葉だった。そこからは記憶がない。私は完全に意識を失ったのだろう。
※ここからは、後日、主治医と家族から聞き取った内容を基に書きます。
麻酔が行きわたり、患者の私は意識を失った。
しかし、麻酔科医は、次の針、次の針と、脊椎に打って行った。
背中には、医療用のテープが張られ、針が動かないようにしっかり固定された。
私がまだ、意識がある時に「ベタベタと音がする、ムカデみたいな麻酔針と粘着テープの繋がりだ」とかんじたそれである。
オペには開始するまでに、さまざまな準備がある。
麻酔もその一つだ。
看護師たちは、手術に使用する医療器具を準備して、私という患者の周りに並べていく。
オペ室のなかでは、さまざまな音が流れている。
脈拍を示す、ピッ、ピッ、ピッ、という音、
自動麻酔注入器が動く音、
シリンダーに麻酔薬が入っていて、ボタンを押すと自動的にゆっくりゆっくりと、機械がシリンダーを押して中の薬がチューブ、針を通じて、私の脊椎に入っていく。
医師は手首の動脈に細い針を打った。
普通は、静脈に点滴を打つが、今回はそれだけでなく、動脈にも打った。
さらに、口の中に管の塊を入れた。
胃の中のものを吸い上げる管だ。
そして、鼻にも管を入れる。
それは、気道を通って、気管支近くに留まる。
人工呼吸器だ。
患者の私は、極度の麻酔で、自分ではもう呼吸すらできない状態にある。
それでは命が危ない。
だから、人工呼吸器をつかって、肺の中に空気を入れては、抜くという、機械による人工的な呼吸を行う。
肺とか、呼吸は、致命的なものだ。
一層、注意を払われた。
全身、青いガウンを着た、医師が3人集まった。
木村先生と、教授、そして若手のお医者さん。
他には、手術現場専用の看護師たち。
3人の先生たちは、私を取り囲むようにして立っている。
木村先生の合図で、いよいよ、オペが開始された。
まずは、電気メスで、腹部を縦に切る。
みぞおちのあたりから、ペニスの付け根近くまで、縦に約33㎝切る。
途中に「へそ」があるので、へそを迂回して、半円を描くようにして、メスが走り、また、下に降りていった。
皮膚を切ると、その下には、筋膜、そして筋肉層がある。
それを今度は、金属の切れ味の良いメスで縦に切っていく。
まるで、魚をまな板の上において、包丁で腹を縦に切り、中の内臓を取り出していく要領と同じだ。
しかし、魚の調理ではなく人間の手術だ。
だから、細心の注意を払い、中の内臓(胃、小腸、大腸)を傷つけないように浅く切っていく。
一方、妻は、私の外科手術中、入院病棟のラウンジと病室を行ったり来たりして時間を過ごしていた。
予定では、8時間くらいという事だったので、その間は手持無沙汰にしていた。
病棟に妻の家族がやってきた。
心配で心細いだろう妻に一緒に付き添うためだった。
病室でテレビをつけても、その内容は頭に入らない。
ラウンジにいても、落ち着かない。
かと言って、時間があるから、外に散歩という訳にも行かない。
看護師から、何かあった場合、ご連絡しますので、待機していてくださいといわれていたからだ。
何かあった場合、、、
いったい何があるというのだ。
一般の人間は、医療とは無関係の日常を生きている。
つまり、病院の中は非日常の世界だ。
そのなかで、「何かあった場合」なんて、想像もつかない。
あるとしたら、よくない知らせに違いないのだから。
カチ、カチ、カチと、ラウンジにある時計は時を刻んでいった。
昼過ぎ、午後3時を過ぎて、、
すでに、予定の8時間を超えていた。
そろそろ、「無事に終わりました」という連絡が来るのではないかと妻は待っていた。
しかし、そんな気配は無かった。