今日は入試問題の演習と解説を行いました。
本郷中学校の問題を用いたのですが、偶然にも以前海城でやった物語文と出典が重複していて、引用部分もほぼ一緒でした。
設問はかなり異なっていたので、1つの題材で複数の問題をやることができたということとなります。
私は、知っている話を授業することがどうしてもあまり得意ではなく、解答という結果を一緒に作っていく過程を重視しています。
そこで、あらかじめ本文や設問を“予習”した後で解説をしていくと、どうしても結果が先に来てしまい、既に頭に入っている結果が影響した過程の説明というものを強いられることになり、個人的にこのような説明にある種の気持ち悪さを感じてしまうのです。
例えば、国語の試験というのはスーパーマーケットの入り口に受験生を並べさせて、お題となる料理を作らせるようなものだと私は考えています。
簡単な問題は、冷やしトマトを作りなさい、難しい問題となると蕃茄炒蛋を作りなさいといったところでしょうか。
そして、受験生諸君は本文を読んでいきながら、ここにこれが売っているという情報であったり、お題となっている料理の材料であったり、実際の調理の技術であったりの多寡を競い合うといったところです。
ここで、解説をする講師があらかじめ本文を読み設問を解き、答え合わせをして、SNS等で模範解答を批判しつつ、板書案を作成し、入念にリハーサルを重ねて授業に臨んだとしたら、これは生徒の腕をつかんで最短ルートで食材を集めていくか、あるいは、あらかじめ切り分けられた食材を調理しているところを示すということになってしまうのではないでしょうか。と私は思うわけです。
私が生徒だったら
「蕃茄炒蛋って何??」
「なんか知らない漢字4文字だったら中華っぽいよね?蛋←コレは日本語では見ないし」
「だとしたら蕃茄ってなんだ?」
「茄←これは茄子の字だけど、茄子ではないから茄子っぽい何かってことだよね??」
というような、初見の時に使う頭と、そこから導かれる緩やかな共通点や過去の経験を一緒に探して行くような授業というものがいいのではないかと思うので、あえて初読でやっているスタイルで授業をやっています。
(厳密にいうと完全な初見は最新の合不合の解説くらいなもので、2年に1回くらいは同じ問題に当たっているのですが、ちょうど忘れていたり何となく覚えていたりでいいバランスになっています)
これは予習をしないことの正当化ではありません。
予習をした方が、おそらく負担は少ないかと思いますし、間違えてしまい恥をかくリスクというのも無くなります。
何を書いているかわからなくなってきましたし、書いている途中で地震のような揺れも2回ほどありましたので今日はこれで終わります。
せっかく書いたのでアップしておきます。