死に向き合ってみないと、絵と歴史はわからない。だから、若くして死に向き合うのは難しいので、なかなか才能のある芸術家や歴史家は育ちにくい。
絵とか歴史の重みは、死ぬほど辛い体験をしないとわからないものではないか。
では、死ぬほど辛い努力を若いうちからしてる青年は要るのか?といえば、やはり、最近減ってる。
努力だけでも死ぬほど辛い努力をしてる若者が少ないのに、死ぬほど辛い体験をしてる若者はもっと少ないはずだ。だから、芸術や歴史は、壮年を超えないと、追求する良さがわからない。
ボテイチエリの春などは、冬の辛さを知らないと、その絵の良さもわからないし、第一冬の辛さを表現する、暗い色彩は、若い間は、なかなか身につけられないだろうし、見向きもしない、感動すらしないはずだ。
冬の過酷さは、死ぬほど冬がしんどくないと具体性を伴って、実感が迫っては来ない。絵に残そうとはしないはずだ。
歴史もそうだ。自分の人生の半ばを過ぎ、終わりを意識して初めて、人生全体が客観的に捉えられて、他人の人生についても相哀れむようになる。そうすると、若くして人のために、大義のために、郷土のために命をなげうち奔走した人が居たことが、有り有りととらえられる。
または、歴史上人物で、若くして、そんな人生半ばの境地を有り有りと想像できるような若者が要るだろうか?と考える。やはり、天才は違うのだな、と勝手に感動する。