クラブ・オーナーを殺害した殺し屋ジェフ・コステロは、容疑者として警察に連行されるものの、完璧に工作したアリバイにより放免。だが、依頼人から差し向けられた金髪の男に発砲され、腕に傷を負う。一方、コステロを犯人と信じて疑わない警視も、徹底した尾行や盗聴、フィアンセへの揺さぶりで追い込んでいく。果たしてコステロの運命はー
1967年のイタリア・フランス合作映画。「フレンチ・フィルム・ノワール」の傑作とされてるそうです。メルヴィル監督の名を初めて知りました。アラン・ドロンが「サムライ」っていう映画に出てるという話は聞いたことがありましたけど・・・。
日本人も、ちょん髷結ったような人も出てきませんし、チャンバラ・シーンもありません。あくまで現代のフランスを舞台にした殺し屋の映画です。武器は拳銃のみ。殺し屋のドロンは、喜怒哀楽の表情を全く見せず、完全に無表情。服装も白いシャツに黒のスーツとネクタイをして、帽子とトレンチコートをきちんと着こなし、ヒッピー・ムーヴメントの前の伝統的なヨーロッパ人のいでたち。殺風景な部屋に籠の鳥だけを飼う孤独な男。
彼も彼以外の登場人物たちも、背景や生い立ちが、ほとんど語られない。特に2人の女性の言動は謎めいている。ナタリー・ドロン演ずるフィアンセのジャーヌは、裕福な男の囲われ者らしいし、クラブのジャズ・ピアニストは、殺しの直後にジェフ(ドロン)の顔をはっきり見ているのに、彼ではないと警察に証言する。その理由も最後まではっきりしないが、彼をかばっているような印象。彼は、恩義を感じてはいるものの、彼女たちのために生きているという印象はない。
徐々に、警察に追い詰められていく殺し屋。最後にドロンが死ぬ場面で、それが一種の自殺だとあとでわかる。
「武士道とは、死ぬことと見つけたり。」(葉隠れ)を、こういう風に表現するのか・・・と、感心した。大体、時と場所を選ぶとしても、自死する覚悟を持たない男を侍とは呼べないと思う。この殺し屋の生きているときの様式と言ってもいいような端正な所作や身だしなみとともに、捕まって囚人になるよりは死を選ぶという心持は、理解できる。これって、案外普遍的な美意識や価値観なのだと思う。だから、海外の人たちに侍がもてはやされるのかも知れない。
『葉隠れ』読んだことがないので、ちょっとググりました。
「武士道とは、死ぬことと見つけたり。」に続くところとして以下に、
どちらにしようかという場面では、早く死ぬ方を選ぶしかない。何も考えず、腹を据えて進み出るのだ。(中略)そのような場で、図に当たるように行動することは難しいことだ。私も含めて人間は、生きる方が好きだ。おそらく好きな方に理由がつくだろう。(しかし)図にはずれて生き延びたら腰抜けである。この境界が危ないのだ。図にはずれて死んでも、それは気違だというだけで、恥にはならない。これが武道の根幹である。毎朝毎夕、いつも死ぬつもりで行動し、いつも死身になっていれば、武道に自由を得、一生落度なく家職をまっとうすることができるのである。
意外でした。自由を得るために、常に死を覚悟するというのが『葉隠れ』の趣旨のようです。
この映画を観てフランス文化の懐の深さに感心しました。武士道は一種の美学であり、様式と様式美を理解するのは、それなりに歴史の積み重ねを経てきた人たちなんですね。様式は、理屈ではないからです。