旧約聖書の「カインとアベル」を下敷きにしたジョン・スタインベックの原作を、名匠エリア・カザンが監督したジェームス・ディーンの本格デビュー作。
ちょうど、この作品の原作本(またまた英文多読シリーズですが・・・)を読んだので、久しぶりに映画を見てみました。原作読んでて思ったのが、いつジェームス・ディーンがやった役が出てくるのかということでした。5章めでやっとキャシー(ケート)が二卵性の双子の男の子を生んで、「片方の子だな・・・。」と思いました。
映画は、大人になったカルが母のケートに会いに行くところで始まってますが、原作だと15章中の13章からなのです。大胆な脚本化が行われてます。
まず父親のアダム・トラスクの性格が違う。映画だと熱血正義漢という感じですが、原作だともっとナイーブな善人と描かれてます。アダムの弟チャールズが残した遺産の金をケートに届けに行くような人です。
ケートが売春宿をやってることが、映画でははっきり出てこない。“酒場”とだけ思う人もいるでしょう。このケートですが、私が今までに読んだ小説の中で一番の悪女です。どんな悪女か知りたい方は小説の「エデンの東」にチャレンジしてください。
トラスク一家を支えたLeeという中国系アメリカ人の召使が映画には出てこない。アジア人に対する偏見したイメージにそういうのがあるようで、いわゆる賢人のような人で、トラスク家の人々が厚く信頼を寄せるのですが、この時代の方がハリウッド映画のホワイト・ウォッシュはきつかったようです。
これは、旧約聖書の創世記に出てくるカインとアベルの話なので、「エデンの東」に出てくるそのストーリーを私が訳してみます。
“カインは、アダムとイヴの初めての息子。その後に弟のアベルが生まれた。アベルは羊飼いになり、カインは畑を耕した。ある時、カインが収穫の一部を神に捧げ、アベルは太った羊を持ってきた。神は、アベルの捧げものをお喜びになり、カインのものには喜ばなかった。
カインはとても怒った。神は、カインに言った。「なぜ怒るのだ?上手くやれば、受け入れられる。上手くやらなければ罪となる。その罪はお前を支配しようとするだろう、がしかし、お前が罪を支配することもできる。」
そして、カインは弟に向かって行って、アベルを殺した。その後神は言った。「お前の弟はどこか?」カインは答えた。「知りません。私は、弟の見張り役ですか?」神は彼を家から放逐して罰した。カインは、その罪によって殺されるのではと恐れたが、神は彼に印をつけ、皆が彼をカインだとわかるようにした。彼を殺すものは誰でも罰せられると神は言った。そしてカインは神の御前から去り、エデンの東の地に住んだ。”
愛してほしい相手から拒否されるのが人間が一番傷つくことのようです。拒否されたときに何をするかでその人の悪の程度がわかる。カルなんて普通かな?と思います。アダムの方がひどいと思う。
小説の中で、父親に拒否されたカルがアーロンをケートに会わせ、ショックを受けたアーロンが戦争に行き戦死したあと、アダムは卒中に倒れて明日死ぬかもしれないとい状況になってしまう。カルは罪悪感に苛まれるけれども、アブラは彼を愛してるといい、Leeがカルをアダムのところに連れていき「許してやってくれ。」と言う。Leeは、良いことを押し付けたりしないけれども、常に彼らが善い行いに向かうように手助けしてくれ、必要なときには助けを連れてきたりする。
アダムは、虫の息で「He has the choice.」と言う。カルは、拒否されたことによって、したいことを選ぶ権利を持った。父の気に入るような別の贈り物を探すことも出来たし、現実のようにアーロンに復讐することも出来た。
これって旧約聖書の時代の“自由”の在り方のことなのかなと私は思いました。神の御前から放逐され、エデンの東に住むからこそ、自分の中の悪を受け入れ自分の“the choice”を実行することができる。
エリア・カザンの演出は見事で、ケートに会ったあとすぐ反戦論者だったアーロンは出兵して列車に乗る。止めようと駅にきた父の前で、列車のガラスを頭で破って窓から顔を出し、父を笑う。彼は、自分を純粋に守っていたきれいごとを打ち破ったんですね。きれいごとは、父の嘘だった。
ジェームス・ディーンは私の好みではないですが、魅力的です。
ただ、映画より原作のストーリーの方が私的には素晴らしいものだと・・・。これこそ文学と呼ぶにふさわしいものだと思います。映画は、どうしても大衆迎合的になりますね。
