神武東征と邪馬台国を含む日本建国史を、旧石器時代から説きおこし、日本人と韓国人やシナ人は別人種・別民族であることを論証。魏志倭人伝、三国史記、記紀、大阪平野の発達史などを交え、日本の建国の事情を明らかにする。

 

 先週の金曜日、祝日でしたよね。“建国記念”です。のを赤字にした理由は、建国記念日ではないという意味です。日本の建国記念日は、神武天皇が橿原の宮で天皇に即位した日のことなのですけど、それがいつだったのかはっきりしないので、戦後に“の”をいれたのです。みんなで、はるか昔の建国の日のことを思いましょうという趣旨です。

 著者の長浜先生は、縄文人と弥生人は同じ日本人だという説の本を書いた方です。考古学から、進んで日本書紀に書かれた神武の東遷が歴史的事実なのだという論を展開されています。

 

 先生は、大学の工学部を出て設計事務所に就職した方で、大学で文化人類学を勉強したことはあるけれども、歴史学や考古学の研究者ではない方です。

 

 この本は、2つの新事実を示して、神武天皇は実在したし、神武の東遷は史実であるという論証をおこなってる本です。

 

 日本書紀や古事記に出てくる、初期の天皇は、10人くらいが100歳以上生きたと記録されている。私も、日本書紀は読んだことないけど、古事記は読んだことがあるので、「120歳とか、130歳とか、まさかね・・・。」と思って、初期の天皇に関する記述は、でたらめで実在したかどうか疑わしいと歴史家が口をそろえて言うのを「そりゃそうだ。」と思ってました。

 

 しかし、長浜先生は魏志倭人伝の「裴 松之(ハイ ショウシ)の注」に次のような文があるとしています。

「其俗 不知正歳四節 但記春耕秋収 為年紀(倭人は歳の数え方を知らない。ただ春の耕作と秋の収穫をもって年紀としている)」

 つまり、春と秋に1歳づつ、1年で2歳年をとる数え方をしていたと言っているのです。

 そのように考えたら、初期の天皇の年を2で割れば、一般人に比べれば長寿だが、医学的におかしくない年齢になる。

 正確な数字は、出せないけれども、神武の即位年は、紀元前70年と長浜先生は推定しています。

 

 目からウロコとは、このことですびっくりびっくり

 

 そして、大阪の土木工事の際に掘削した地層の炭素14年代測定によりいつの時代に気候がかわり、大阪湾の水位が変化し、地形が変わったのかがわかるようになった。

 そして、神武の東遷の記述。大阪湾の北の河口から、その河内潟に入る詳しい描写が河内潟の当時の様子に合致していると言ってます。

 今は、河内平野になっているその時代の河内潟は、地球の温度変化で平野から潟になり、湖になり、仁徳天皇の大川の堀江の掘削工事など、時代ごとに様子を変えています。

 しかし、神武の東遷があったと推定されるBC1世紀ごろに、大阪湾から河内潟に船で入ることができた事実を明らかにしています。

 

 この本を発表したあとも、長浜先生、あまり批判などはされてないみたいです。

 

 なんか、ホメーロスの叙事詩イリアスを史実だと信じて、トロイの遺跡を発掘したシュリーマンを思い出してしまいました。