室町時代の中ごろ、武士の醍醐景光は、ある寺のお堂で魔物に通じる48体の魔神像に天下取りを願い出て、その代償として魔神の要求する通り、間もなく生まれる自分の子を生贄として彼らに捧げることを誓う。

 誕生した赤ん坊は身体の48箇所を欠損した状態で生まれ、母親と引き離されてそのまま川に流されてしまう。偶然、情け深い医者の寿海に拾われた赤ん坊は、彼の手により義手や義足を与えられる。

 15年後、成長した赤ん坊は百鬼丸と名乗り、不思議な声に導かれるままに自分の身体を取り戻す旅に出る。旅の途中、百鬼丸は幼子の盗人どろろと出会い、一緒に旅することとなる。 

 いつしか2人の間には相棒とも友人とも呼べる絆が生まれる。
 

 

 1969年制作のTVアニメ「どろろ」、後半カルピスまんが劇場になってタイトル「どろろと百鬼丸」に変わっています。

 どろろって昔、TVで見た記憶はほぼないなと思います。見たことないかと言われれば、「いや、あるような気がする・・・。」ですけど・・・。

 それよりも、小学生のころ同級生の男の子が、「こんなすごく面白い話なんだよ。」みたいに、48体の体の欠損を妖怪を一体倒すごとに取り戻すという設定を熱く語っていたのを思い出します。実際、これ設定がすごく面白いですよね。ただ、子供が見るには、残酷で暗くておどろおどろしい。

 大人になって見ると、1969年当時、まだ戦争を知っている大人がアニメの制作現場にも多くいて、国際情勢や戦争と社会の在り方をアニメに反映させているのが分かります。

 OPの歌詞「ほげほげたらたら・・・」が、サムライすなわち社会の支配層に対する痛烈な皮肉になっていることに気が付きます。第二次大戦中戦後に思春期を過ごした世代の人達は、教師や大人の教えることを信用しなくなったんですよね。

 この時代の、社会主義的雰囲気のせいか、虐げられた民衆一揆が描かれて、百鬼丸が民衆と協力して妖怪を倒すみたいなプロットが多く出てくるんですが、今見ると陳腐。白戸三平の影響なのか、こういうのがかっこいいと思われてたんですね。

 

 最後、第26話で、生みの父、醍醐景光が48番目の妖怪だという声を聞き、百鬼丸は景光のところに士官を願い出る。一揆の民衆とともに捕まっていたどろろを殺すなら士官を聞き届けると、景光はいう。止めに入る百鬼丸の生みの母。母も、景光に殺され、再び地獄堂で天下取りを祈願する景光。それを追ってきた百鬼丸。

 景光は、子供を捨てるような人でなしのくせに都合のいいときだけ、「実の親に刃を向けるのか?」などと百鬼丸に言う。ついに百鬼丸は、「俺の父は、俺を拾い育ててくれた寿光だけだ」と決心し、景光を倒す。

 感情てきに、うまくまとまっています。

 

 アニメが、Prime videoにあったので「おっ、こんなの見られる」と思って見てみましたが、そのあと図書館に行って、漫画を手塚修虫漫画全集版も読んできました。

 

 アニメ版の方が、よくまとまっていました。ただ、やはり、漫画版に出てくる手塚先生の美しい馬の飛び跳ねるペン画とか見られると、感動してしまいますね。

 

 漫画の方が、人気がないとすぐ打ち切られる漫画雑誌のアンケート・システムのせいか、48体の妖怪退治も完了してないみたいだし、醍醐景光との確執もなんだか中途半端に、尻切れトンボみたいに終わっています。

 

 第26話は、完結編として百鬼丸が醍醐景光を倒し、女の子とわかったどろろと別れるところで終わってます。 

 

 私は、手塚治虫の漫画やアニメをすべて読んで見ているわけではないのですけど、これまで読んだ手塚作品の中で一番面白いと思います。