「いつも現在進行形、面白いのは目の前のこと。」

“好きなものを好きなように”作りつづけ、アニメーション映画制作の最前線を駆け抜けてきたジブリも三〇年。高畑勲監督の一四年ぶりの新作公開、宮崎駿監督の「引退宣言」と大きな転換点を迎えた今、プロデューサー・鈴木敏夫が語ることとは?(表紙カバー見返しより)



 鈴木敏夫氏は、ジブリのプロデューサーで、あまり作品に口出ししないと言われてきましたが、この本を読むと、作品の方向性を決めるところで、すごく上手く口出ししていることがわかります。高畑・宮崎両氏にとって、なくてはならない存在だったようです。

 子供のころから、高畑・宮崎両氏のアニメを見てきたものとして、のちにスタジオ・ジブリが作られて、高畑勲と宮崎駿が別々に映画を作るようになった時、宮崎駿が絵コンテ以上の役割で参加した作品には何か特別なものがあるのを感じるようになった。ジブリの作品には、高畑・宮崎以外の監督の作品もあるが、それらの作品にその“特別感”はない。

 それが何なのか、この本の中に引用してくれていました。言葉にしたのは、ほかならぬ高畑勲。

 宮崎アニメの大きな魅力は「官能性」だと高畑さんは言います。(本書P93)


 官能性って、ちょっとわかりにくい言葉ですよね。辞書で引くと、化学用語としての意味を別にすると、

「性的な情欲を掻き立てる感覚的刺激。官能的であること。」

意味のわかりにくい言葉は、外国語にしてみるとよくわかる。

 官能的は、英語にすると“sensual”になるんですが、sexualと、どう違うかということですね。違いとして、注目しなければいけないのは、“sensual”には、」性的・性器的刺激ではない感覚的刺激によって性的興奮を起こすということ。性的興奮というよりも、生き生きとした感覚といったらいいのかもしれません。性という字は、立心偏に生きると書きます。心が生き生きするという意味なのです。

 エヴァンゲリオンの素裸のうえにプラグスーツを着てるレイやアスカをみるのは、“sexual”な刺激になり、宮崎駿のアニメに登場する寸胴なワンピース姿の少女や少年の奮闘からえる刺 激とは別物というわけなのです。

 宮崎駿は、稀代のアニメーターで二次元の登場人物をアニメイトさせるだけでないく、それを見る観客の心も生き生きと躍らせるわけです。それが、高畑勲のいう官能性ということなのだと思います。

 ジブリの映画ならなんでもいいというタイプ(私のまわりにもいました。)には、どうでもいいことでしょうが・・・。