『日本教について』に書いてある踏み絵についての章でに、キリスト教と同様に禁教として弾圧された「一向宗」の話が書いてあります。

 徳川家康が一向宗の信徒である臣下に

「処刑か改宗か、どちらかを選べ」

 部下は平然として答えました。

「改宗はしません。処刑してください」

 家康は、処刑しようとしましたが、何事か考えしなかった。すると、

「唯今、改宗いたしました。」とその家臣がいった。

 家康が訳を訊くと

「命が惜しくて改宗したといわれるのはサムライの意地が許さない。だがこれでそうではなくなったので改宗します。」と言った。

(筆者抜き書き)



 そして小室直樹が16世紀の終わりごろからキリシタンを弾圧したときに聖母子像の「踏み絵」を踏ませたのは、キリスト教をわかっていなかったからだと、言ってます。踏ませている役人がわかっていないのは無理からぬことですけど、踏まずに殉教者になったキリシタンの方は、キリスト教を理解していたなら踏むどころか踏み絵など蹴とばしても平気だったろうと小室先生が言ってます。

 偶像はただの物であって、"God"ではないということですね。

 踏み絵を踏ませるというのは、現代も言葉上よくあることで、次のような意味でやっているということです。

 一向宗の家臣の場合であれば、主従関係よりも、お前が信ずるという宗旨が大事か?

 安保法案反対を主張する国会議員に、「日米同盟の廃棄を望むのか?」というのもあります。言い換えれば、日本国の安全よりも、お前の主義を優先するのか?ですよね。

 山本七平も踏み絵という方式は、「一宗教団体が異端者を排除するために用いる方法」だと言っています。

 キリシタンを排除するためのものではなく、「日本教」の異端者を排除するためのものになっていたということですね。聖母子像の図柄の絵を用いたのは、「日本教」という前提そのものが日本人に意識されていないからです。

 一向宗の侍の意地を支えている教義の前提こそが日本教と言うものなのでしょう。

 それらは、よく神道の心構えと言われる「清く、明るく、直く」というなんだか子供のように純真にというところに通底しているような気がします。