中国古代の兵法書集「三略」を預かる吉岡鬼一は、源氏方の武士ながら平清盛につかえ清盛に「三略」を渡すよう迫られている。
一方、清盛に打たれた源義朝の遺子牛若丸(義経)は鞍馬山で天狗の僧正坊に武芸を指導され「三略」を手に入れようとしていた。
また同じ頃、書写山に預けられていた鬼若丸(弁慶)は、寺の稚児との争いから山をおり都に向かう。
そして、京の五条橋で二人は出会う。
3年ぶりくらいで大阪まで出かけ、国立文楽劇場で見て来ました。人生で2度目の文楽鑑賞になります。
今回、文楽の良さを再認識。
歌舞伎に比べ展開がスピーディ。
語りが感情豊か。
お値打ち。
歌舞伎を初めて鑑賞される方は、あまりの展開のスローなことに痺れを切らしてしまう事が多いと思うのですが、いらち(せっかちのこと)の関西人が作りだした芸能は、18世紀の芸能でありながら、大変話がスピーディに展開するので飽きることがありません。またその近代的な舞台の構造。語りの太夫と三味線が小さな回り舞台でさっと登場したり、舞台の幕が切って落とされて場面が早変りのように展開するとちょっとびっくりします。大阪はその都会ぶりを江戸時代のこういう様式に見せていたのだと思います。
話は、『義経千本桜』ほどではないけれども、「義経物」の名作。天狗に武芸を習うとか荒唐無稽で感情豊かで、とても楽しい世界。こういうのを見て江戸時代の大阪の市民が楽しんでいたんだなと思うとその教養と趣味に感心してしまいます。
作品は、半通し狂言で五段が上演されましたが、ほとんどの段に共通して登場するのが、「勧進帳」にある家来が主君の窮地を救うために主君を敢えて打ちすえるというモチーフ。各段を違う作者が書く事もありがちな日本の古典芸能でこういうモチーフの共通性に着目して演目を組むのは現代の観客の嗜好を考慮しての事だと思います。
客席の入は半分程度。国立とは言え、鑑賞者のいない舞台はさびしいもの。関係者の努力も必要ですが、見た事のない方に一度試しに足を運んでもらいたいものだと思います。