1835年大阪中津藩蔵屋敷生まれ。54年蘭学を志し、長崎に出る。翌年緒方洪庵の適塾入門。56年福沢家の家督を継ぐ。58年江戸中津藩中屋敷に蘭学塾を開くが、翌年英学に転向。60年軍艦咸臨丸でサンフランシスコへ渡航。62年幕府遣欧使節随行員としてヨーロッパを歴訪。68年塾舎を新銭座に移転、「慶應義塾」と命名し、71年には三田へ移転。90年慶應義塾大学部を設置。著者に「西洋事情」「学問のすすめ」「文明論之概略」「通俗民権論」などがある。1901年、66歳で死去。
「門閥政治は、親の仇でござる。」など、知ってるエピソード結構ありました。福翁自伝を通して読んだのは、初めてです。
この版は、歴史的仮名遣いだけ現代仮名遣いに直してあります。言葉遣いは、もとのまま。古典文学と言うほどではないけど、現代語ともいえない微妙な文章。
明治のころには使われていたんだなという面白い言葉遣いが、「くれろ」というもの。「くれる」の命令形らしいのです。現代のことばにするなら、「もらえ」とか「受け取れ」の意味で使われていて、「くれ」とは違う意味なのですが、この本の中だけでも何度も出てきました。現代では「くれろ」という語形は失われたようですが、それとも福沢先生の個人方言なのか、興味深かったです。
酒飲みだが、お金と女性関係には清廉潔白だったと自己申告。借金はしない主義。教育者としては、良い性格か。でも、いたずらは大好きだったみたいです。河豚を鯛といつわって、人に食べさせるというのをやったと書いてありました。このいたずら、私が学卒で入った会社の釣り好きの人が後輩にやってた。結構、ひろく行われてるいたずらだと思います。食べた人が当たったらどうなるのか・・・?
根っから開国主義者だった福沢先生は、薩長も徳川も、“攘夷派”だと、喝破しています。特に幕府は、“嘘”開国主義なのだと・・・。欧米列強に逆らえないので、表向き“開国”といってるだけなのだと言っていて、幕末の政情がわりと露わになった感じがしました。日本史の教科書だけ読んでると、手のひら返しがおきて、「攘夷、攘夷」言ってた勤王派が天下取ったのに、明治時代になると「開国」になってしまうので、当時の政情をどう理解するのか、高校のとき苦労した覚えがありますが、これを読むと理解しやすくなります。
つまり、「攘夷」というのは、現代の左翼の一部が今も言ってる「自衛隊は違憲」とか「日米同盟破棄」と同じで政権政党になったら、現実を容認するしかなくなる。現実は「開国」なんです。
福沢先生の明朗で勇敢な性格、本全体をとおして、非常に面白いもので、若い人に読むのを勧めたいですね。

