先週末は幼稚園の運動会でした。
リレーのアンカーがった娘。
黄色チームの第二走者が走らず歩いて一周したため、娘にバトンが渡ったときには他のチームはとっくに全員ゴールしていました。先生たちは次の競技の準備を始めてしまいました。一人残されたアンカーの娘はどうしたらいいか分からず、準備していた先生に寂しそうに聞いたらしいいのです。先生もリレーが終わっていないことに気づき、娘は一人、全速力でグランドを一周したのでした。他の父兄たちは娘の足の速さに驚いていたようです。
夜、帰宅してその話を聞いて、娘を「全力で走ったのが偉いぞ」と褒めてやりました。そして、「ところで、運動会では何組が優勝したの?」と娘に聞くと「全部の組」との答え。園長先生は「みんなよく頑張りました」で、順位は付けなかったのでした。
さて、昨日は小4の娘のマラソン大会でした。自信のなさそうな娘に「順位は何位になってもいいから、ベストを尽くせ。ふらふらになるまで走ってこい」と言って朝送り出しました。
昨日は休みで、一日中読書していた私は、帰宅した娘に「マラソン大会どうだった?」と尋ねました。結果は、全体で22位、女子では3位だったとのこと。思いどおりの結果に、朝の自信の無さはどこへやら・・・。
でも、彼女の順位が分かったのは、ゴール後に番号札をもらったから。女子の3位も前の二人とそんなに差が無かったから分かったとのことでした。このあと表彰式も無く、通常の授業をして下校。
私が小学校の頃は、男子女子と別れてマラソン大会をして、上位3位くらいまではみんなの前で表彰されたと思います。「あいつ、勉強はいまいちだけどマラソンはすごいよね」とか、「あの子、いつもおとなしいのに、足は速いな」など、ヒーローやヒロインを称えたものです。称えられた彼ら、彼女らも、自信をエネルギーに変えられ、その後の人生でもプラスになったと思います。
今、娘たちの世界では、競争は排除され、順位を付けるのは”悪”だという雰囲気です。結果じゃなく、完走した努力、運動会を最後までやった頑張りをみんな平等に褒めるというのが今の流儀なのです。
競争が排除され、みんな平等に褒めるという、この教育。社会に出たとき、大人になって自立しようとしたとき、いきなり競争社会にもまれ、結果も報酬も平等とはいきません。
どうしたらいいのでしょう?
つづく・・・
娘がゴールしてもらった札。ゴールしたタイムと名前は自分で書き込むらしい。