私の麻雀40年史 | 雀ction2024のブログ

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これまでにないまったく新しいタイプのノーレート雀荘です。2024年12月板橋区役所前駅出口0分でOPEN。

コンプライアンスの時代・・・・。

かろうじてなんとかついて行ってる昭和のしょーちゃんです(^^)

 

麻雀を覚えた経緯も「麻雀できないなら仲間に入れてやらねぇ」の一言。

 

先輩に教えてくださいと言っても自分で勉強しろと言われました。

本屋で「麻雀の教科書」みたいなのを買って必死で覚えました。

今から40年前・・・今とは違って雀荘はオンレートならピンが普通。

0.5なんてほとんどありませんでした。

 

覚えたらどんどん面白くなってハマっていきます。

しかしすべからく手元にお金が消えていくのです。

 

今日は私の麻雀史40年をチラッとお話しします。

 

1984年。20歳の私は先輩に無理やり誘われ、麻雀を覚えることに。

 

本で覚えるってことがどれほど難しいか。

それでもなんとかルールは把握していたことで「いざ実践!」

中の対子で「ロン!ピンフドラドラ」と牌を倒すと

「はいはい!2000-4000ね!」

「え?あのぅ3900点ですけど」

先輩はニヤニヤしながら「お前が払うんだよ」

そう、役無しのチョンボってことです。

初心者だからって許してくれず、その日は半荘3回だけでしたが7000円も取られました。

当時は手積みでレートは0.5でした。

 

その後、母の関係で名古屋へ。

名古屋では今池に雀荘が集まっています。

自動卓がすっかり定着した麻雀界。

レートは1.0(ピン)のワンツー。

0.5なんてありません。

 

そこそこ学習してきた私でしたが毎回2万円近く負け。

週に1回程度でした。

そんな私がものすごくツキに恵まれた日があってその日は3万円超えの収入。

でもそれっきり。

「はよぅ切りゃぁ」とよく言われたものです。

恐らく名古屋では総額30万くらいは負けてます(;^_^A

 

大阪ではいろいろ経験しました。

カンサキ・・・完全先付けのルールには手を焼きました。

たとえば

❷❸❸❸四五六六七八345

ドラは六万。待ちは❶❷❹で❶or❹が出ればピンフ、❷が出ればタンヤオ。

ダマにしていた私は❹が出たのでタンピンドラドラで満貫!と手を開くとチョンボと言われる。

完全先付けではこれはダメ。

王手飛車という形もダメ。

そして関西ではピンフとツモを同時に数えないため、1300-2600は1000-2000になり、跳満は満貫になるのです。

七対子ドラドラは8000点・・・意味不明でした。でも地域の特性なんでしょうね。

 

またブー麻雀はもう最悪。

店によってはマルAでしか認めないってことも。

マルAとは一人浮きってこと。二人浮きはNG、チョンボってことなんです。

 

広島の三人麻雀では現物以外ならフリテンロン和了りOK。

今はそんな店あるのかなぁ。

 

なんだかんだで40年。

麻雀はやっぱりメンタル競技ですね。