もうすぐ立春。暦の上では春の声が聞こえ、暦の下はまだ寒いけれど、何やらもぞもぞ蠢(うごめ)き始めるものを感じさせる季節。
節分というのは季節の変わり目を意味することで、1年に4回、立春、立夏、立秋、立冬の各前日をもって季節を分けるという意味から、節分とつけられたもので、そのうちの一つがこの立春の節分。「ふくは~うち
おには~そと
」って言って豆まきする「節分」。
その「節分」は、もともとはこういういわれがあったとか。
(事理片々について綴られた本に書いてあった記事の一部ですが、鬼が去るところまでは文をやや短くしました)
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~前略~
昔、ある山国に、非常に貧しい老夫婦がいた。夫が病身で寝ついている状態だった。蓄えがある訳もなく、その日暮らしどころか場当たりの暮らしで、食べ物が無ければ空腹で過ごす、といった有り様で、暇を見ては手のかからない野菜や豆を植えては糊口(ここう)を凌いでいた。
夫は若い時町に出て働いていたが、酒と女で身を持ち崩し、病み患う身となって老婆の許に返って来た。苦しみを味わうことでその何分の一かを償えるかというものだったが、老婆は苦情一つ言わないどころか、誠心誠意病人の面倒を見る、良く出来た人だった。
不動な信仰をもち、確固たる信念のもと、天神地祇(てんじんちぎ)を欠かさず祀(まつ)り、朝に夕にお勤めとお祈りを欠かさず、一心不乱に祈っていた。
しかし、病人は日に日に衰えを増し回復の兆しが見えなかったので、彼女はちょっとした思い付きから、豆を炒って粉末(きなこ)にし、これを病人に食べさせるようになった。すると、意外に喜んで食べるようになり、ある程度元気を回復してきた。そして老婆も炒り豆を食べるようになると元気が付くので、炒り豆をかじっては水を飲むといった生活を続けていた。
ある日のこと、いつもとかわりなくお祈りしていると、2人の鬼が現れた。
「お前の信仰心厚いところから、今日まで延ばして来たが、いよいよお前の亭主を連れて返らねばと、と思って来てみたが、大変元気なのに驚いた。あの罪深い男をよくも面倒を見てきたものだ。全く感心の至りだ」と褒められた。
そこで老婆は、この使者の鬼に何を供えたものかと考えたが、何もなかったので炒り豆をお供えして「これは貧しい者の食べ物ではあるが、貧者の心を察して召し上がるように」と言って、水を添えてお供えした。すると二人の鬼は、大変喜んで「お前のような心の美しい者は世に稀である。われわれというのは、いずこへ行ってもこのようなお供えを受けたことはない。お前の志を受けることに致そう」と言って、礼を述べて去って行った。
老婆は、神でも拝むかのように2人の鬼の後ろ姿を拝んだ。その後夫の病はめきめきと快方に向かい老婆を喜ばした。
この鬼に炒り豆の供養をしたのが、立春の前夜であったところから、節分会の追儺(ついな)の行事が始まったかは別として、現在、鬼は外、福は内というのは正しくない。
鬼であっても、自然界のどこかに存在し、人間と何かの関連を持っているものであるとするならば、何かの方法で教化せねばなるまい。それだのに、皆が皆、鬼は外、鬼は外へと追放したとして、追い出された鬼を、どこへ行けと言うのだろうか。行くところのなくなった鬼は、その本性をより強く現すことはことは言うまでもない。してみると、今日世間で行なわれている節分会というものの在り方は意味がない、と言わねばならない。
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先日、『千(せん)と千尋(ちひろ)の神隠し』をたまたま観たとき、この「節分」のことがよぎったのは、主人公の千尋ちゃんが、この老婦人のように思えたから。
『千と千尋の神隠し』は、人が足を踏み入れてはいけない不思議な世界に入ってしまい、豚にされてしまった両親を助けて人間界に戻るまでの、千尋という少女の冒険の物語。この世界で名前の一部を湯婆婆(ゆばーば)に消され、名前を思い出し呪いが解けるまでまで千として生きるのですね。
物語の舞台である「油屋」という大きな湯屋に突然入り込んできたカオナシという化け物が、従業員を次々呑み込んで巨大化して暴れまわるのだけど、ハクという少年を救うために銭婆(ぜにーば)の家に向かう千尋を追いかけていくうちにおとなしくなり、最後は銭婆のもとに留まることになった。

カオナシは、金や食べ物をエサのように見せびらかして相手が欲しがったら呑み込んで大きく成長する。千尋が引っ掛からなかったのは、豚にされたお父さんお母さんを助けたい一心で、欲の入るスキがなかったから。
千尋ちゃんの凄さを感じたのは、その場面以上に、「こっちにおいで。ここにいたらあなたはダメになる」と言って、カオナシを油屋からおびき出し、銭婆の家へ一緒に連れ出して行ったところ。
なんて心のあたたかい子なんだろう (T_T)
と感動しながら、ついでに、ハクが登場するたびに、
ワーイ ややハニュクン
とプチ萌えして観てました。羽生くんっぽかったら何でもこうなるんだわ



それで、それと真逆なのが、トランプさんの大統領就任演説だった。アメリカ第一主義を訴えるのは立場上仕方ないとしても、アメリカさえ良ければいいみたいに聞こえちゃって。
いっこの人間もいっこの国も同じ。トランプさん、カオナシに食べられちゃうぞ。と思っちゃった。
ISも、結局は自分達がつくり出したようなもので、自分達の物欲だとか、都合の悪い相手を初めから否定しようとするような、私たちのココロの黒い影の部分から生まれた副産物のような存在だと思う。鬼やカオナシと同じ、ね。
追い出したって、結局は自分のところにいつかは戻って来る。戻って来なくても、別の鬼が新たに生まれる。それを生まれさせているのは自分(たち)なのだから。
そうすると、自分を変えるしかない。
つまり、鬼を追い出しても、福はやって来ない。ということ。
鬼もISも、少なくともココロを持っていることは間違いないのだから、そのココロに触れる自分(たち)になること、だね。
「節分」の「鬼」とするターゲットは、具体的な誰かでなくて不幸とか病とか、無形のものとか状態とかのことだ、っていう人も知るかもしれない。
でも、形のある相手であっても形のない相手であっても、「鬼」として受け入れずにあっち行けって言うことでは、基本的には同じ、ですよね。
なーんて言ってるけど、「節分」は、単なるお楽しみの行事。

元気な声が聞こえるのは嬉しいことなので、皆で大いに、楽しんでくださいませ~。(矛盾して聞こえるかもしれないですけど
)
ということで、豆まきしながら、「鬼」のこととかを改めて考えてみるのに、「節分」は良い機会ではないかな。と思いました。
これを読まれた方々が、「鬼」のことを、心の隅っこにちょっとだけ置いて下さったら嬉しいな、と思いました

筆者の最後のほうのことばも、おまけで載せておきます。ちょっと厳しいことばかもしれないけれど、社会への愛が籠もってることばだったので、感じてくれると嬉しいです。

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福を求めるところから始めたことならば、鬼をも味方にするくらいの大きな気持ちとと徳を具(そな)えなくてはできないこあとであるから、鬼を追い出す前に、己れが鬼にならないように努めることである。
鬼追放行事が、すでに鬼の行為であって、このような排他的行事と精神をもってする限り、年ごとに節分会を催し、鬼退治をしてみても、一向に鬼はなくならないし、世間は明るくならない。無意味なことである。行事ある限り、意義あらしめるようにするべきである。
~後略~
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