第6話
僕は地下鉄の改札口の側にあるベンチに座った。
携帯電話を手にした。
携帯電話の待ち受け画面に実亜の可愛い顔が僕に笑いかけていた。
時刻は7時半を過ぎている。
僕は朔に電話をかけた。
5コールの呼び出し音で、やっと出た。
「秀、どうした?」
朔の声が妙に懐かしく感じた。
僕は実亜が入院したことを話した。
でも、萌子さんが同じ部屋にいることは言い出せなかった。
電話では言いにくいことだった。
「朔、飲まないか」
「実亜ちゃんがいなくて淋しいのか」
朔はこういう時、おちょくらないで真剣に聞いてくる。
普段、ふざけたことばかり言うのに
、こんな時は思いやってくれる。
僕は曖昧に笑った。
「悪いな。年末だから、オレが飲みに出かけたら、早苗が機嫌悪くなるんだよな。ずっと、飲み会に出ていたから」
早苗は朔のカミさんの名前だ。
結婚前に好き放題遊んだせいか、すっかりカミさん思いになっている。
「秀、家へ来いよ。天気の話しをしてやるぞ」
僕はすっかり気が失せてしまった。
「朔、ありがとう。今日はいいや」
「そうか…実亜ちゃん、大事にな」
そう言って、電話は切れた。
今さら、朔に萌子さんのことを話しても何にもならない。
かえって、朔に断られて良かったと思った。
でも、すぐに地下鉄に乗って帰る気にもなれなかった。
だからと言って、一人で飲む気にもならない。
僕は一人、地下鉄のベンチにただずんでいた。
萌子さんは、実亜に20年前の僕とのことをどうして話すんだろう。
僕のこと気づいていないのかな…
いや、そんなことはない。
僕にメッセージを送ってくれているのかな。
萌子さんがあれだけ、僕を無残に捨てたのは、ご主人との生活を選んだからだ。
僕だって、萌子さんをご主人から略奪するほどの勇気はなかった。
20年前、冬が始まろうとしていた時だ。
萌子さんがドアを開け、店に入ってきた時は、正直、仕事をしていた手が止まった。
店のスタッフも、そこにいたお客さんでさえも、息を飲み、見とれたようだった。
美しいというより、神秘といったほうがいいのだろうか。
萌子さんは待合椅子に座り、店内を見回していた。
当時、店で一番若かった僕が、応対する仕事だった。
「いらっしゃいませ。今日はいかがなさいますか」
何百人、何千人に言ってきた言葉が
、この時は舌がもつれて噛みそうだった。
萌子さんの微笑んでいる目が僕を捉えた。
僕は萌子さんから目をそらすことが出来なかった。
「ショートカットにしてください」
ぼくは息を飲んだ。
艶やかな髪が肩胛骨の下まで、しなやかに流れている。
「かしこまりました」
おそらく、店長がカットするのだろうが、あんなに綺麗な髪を切るなんて、罰が当たりそうだと思った。
萌子さんを鏡の前に案内をした。
カットクロスをかける手が震えたのを覚えている。
僕から店長に変わろとした時だ。
突然、「あなたがカットして」と、萌子さんが僕に言い出した。
「お客様、こちらのスタッフは、まだ新米でして」
店長が柔らかく断りを入れた。
「だから、お願いしたいの。私の髪で練習をすればいいわ」萌子さんは鏡の中から、僕を見て笑っている。
僕はどぎまぎしてしまった。
「あのう、もし、失敗しましたら、
取り返しつかないことになりますし
」
店長は柔らかく言っているが、内心では多分いらいらしていたはずだ。
店長は綺麗な人だったけれど、ヒステリックなところもあった。
長年、シングルマザーだった。
「いいの」あっさりと萌子さんは言った。
店長はそれ以上、取り合わなかった
。
「では、永瀬にやらせますので」
店長は僕の名前を言って、僕の背中に軽く手を当てた。
僕に委ねられた美しい髪にめまいが起きそうだった。
どのような形に切るかは、僕に任せると、萌子さんは言った。
自信がなかったが、僕はハサミを手にした。
僕はテレビで見たことがある映画『ローマの休日』のオードリー・ヘップバーンの髪型を萌子さんにイメージした。
僕の手は未熟だったのに、萌子さんは「気に入った」と言ってくれた。
実際、短い髪型も萌子さんに似合っていた。
萌子さんが帰った後、へたへたと座り込みたくなるほど、疲れ切っていた。
その日は仕事の後片付けをしながら、スタッフに冷やかされたり、労われたりして散々だった。
それから、何日かして仕事が休みだった日、僕は大通りの本屋に出かけた。
僕はあの日から、髪の短い若い女性を見ると、萌子さんじゃないかと、もっともその頃は名前を知らなかったが、期待してしまった。
会ったところで、どうなるわけでもない。
自嘲しながら、萌子さんの幻影を
追い払っていた。
僕はエロ本でも立ち読みしようかと
そのコーナーに行こうとした時である。
突然「こんにちは」と、後ろから声をかけられた。
振り向いて、僕は目を見張った。
萌子さんだった。
続く
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