第17話
僕は萌子さんのことを考えながら、眠ったふりをしているうちに本当に眠ったらしい。
「秀ちゃん、秀ちゃん、起きて」
誰かが揺すっていると思ったら、実亜だった。
呼ばれて、薄目を開けると、実亜の不服色に満ちた目があった。
「もう~。秀ちゃんってば」
ベッドの縁に腰掛けて、僕の腹を軽く叩いた
僕はその腕を掴むと、そのまま実亜を倒して、僕の腕の中に包んだ。
「起きてるよ」
「秀ちゃん、お風呂。朔ちゃんたちがあがったから、早く入ろうよ」
そう言って、僕の腕の中からすり抜けてベッドサイドに立った。
「今、何時?」
「4時ちょっと過ぎ。秀ちゃん、1時間眠ったのよ」
実亜の唇が尖る。
「ごめん。実亜は何していたの?」
そう言って、僕は起き上がった。
「下のリビングで、萌子さんと話してた」
屈託なく言う実亜に「そう」と軽く受け流した。
浴室は3畳ほどあったが、家庭風呂のような感じだった。
浴槽は一畳ほどあり、2人で入っても、広々としていた。
実亜は大はしゃぎだった。
「いいなあ。こんなお風呂。お家に付いていたら最高よね。毎日、温泉なんて夢だよね」
クロレラ温泉らしい。
お湯の色が濃い藻のような色をしている。
洗い場の蛇口からも、温泉の湯が出てくる。
実亜の身体はまだ若い。
でも、湿疹の後が色黒く身体全体に残っていた。
「ねえ。秀ちゃん、このシミ消えるかなあ」
不安そうに言う。
「時間がかかるけれど、消えるって医者が言ったんたから、大丈夫だよ」
当たり前の受け答えをしながら、実亜の背中にボディソープの泡をフカフカにして洗って流してやった。
萌子さんのいる空間で、夫婦になった実亜とこうして風呂に入っている
。
複雑だった。
約束通り、6時から食事会が始まった。
萌子さんのご主人の作った料理は完璧で、まるで、本格的なレストラン
の雰囲気を醸し出していた。
「ご主人、本当のコックさんみたい」
実亜と早苗さんがはやしたてた。
ご主人の仕事は普通の会社員と聞いている。
「萌子が病気になっちゃって、僕がやらざる得なくなってしまって」
そう言って、みんなのワイングラスに白ワインを注いでくれた。
「それにしてもすごいわ」
実亜と早苗さんが、異口同音で褒めている。
「秀、何か耳が痛いなあ」
朔が僕に同意を求めてくる。
僕は薄く笑った。
「さあ、いただきましょう」
ご主人がみんなを誘う。
「ワー!!みんなの出会いを祝してカンパーイ」
実亜の音頭につられて、みんながそれぞれグラスを傾け合った。
僕は萌子さんと目を合わせないようにして、グラスを軽く合わせるふりだけした。
「この、白老牛、美味しい!」
「ワインと合いますねえ」
みんな、楽しそうだ。
僕はせっかくのワインも白老牛のステーキもサラダもポタージュも、ただ、喉を通過させて胃袋に押し込んだだけで、味わうことなど出来なかった。
何で、僕は、萌子さんのご主人の手料理を、こうやって食べているんだ。
僕は可笑しくなって、声あげて笑った。
みんなも僕の笑いに違和感なく笑った。
萌子さんも笑っている。
どんな理由で笑おうと、この場は笑いが疑われない食事会だった。
後片付けは僕と朔が受け持った。
この旅行は、妻達に慰労の意を示して、夫達が働く流れになっていた。
萌子さんのご主人だけを働かす訳にはいかない。
そんな暗黙の了解が僕と朔の間で出来上がっていた。
「秀、もっと自然にやれよ」
朔が皿を洗剤で洗い、僕がお湯で洗剤を洗い落としていた。
「そんなこと言ったて、無理だよ」
僕は低く叫んだ。
「もう、諦めろ」
「分かってるさ」
そこに、実亜と早苗さんがやって来た。
「何、コソコソ話してるの」
実亜がわざとらしく咳払いして、僕に身体を押し付けてきた。
不意をつかれて、よろめいた僕は朔に慣性の法則のようによろめかしてしまった。
「助っ人登場~」実亜と早苗さんは大げさなリアクションをした。
2人は皿拭きと食器棚にしまうのを手伝いにきてくれたのだった。
対面式のキッチンから、萌子さん夫婦がソファーに並んで、何か語り合っているのが見えた。
「萌子さんとご主人、本当にお似合いの夫婦ね」
実亜が憧れの目をして言う。
「本当に微笑ましいわね」
早苗さんも反芻している。
僕は無言だった。
朔もおとなしかった。
後片付けも終わり、蜜柑をみんなで食べた。
普通はもっとアルコールを飲んだり
、タバコを吸ったり、夜はいつまでも続きそうなものなのに、何だか妙に地味だった。
一応、主宰者である萌子さんのご主人の意向なのだろう。
正直言って、ありがたかった。
萌子さんの蜜柑の皮でもさえ、ご主人が剥いてあげている。
実は僕はずうっと、萌子さんの手を見て見ぬふりをしていた。
萌子さんの手は、すでに、不自由になっていた。
膠原病の強皮症という病気が、萌子さんの手を不自由にしていたのだ。
「萌子さん、握力が全然ないの。だから、あたしが、ペットボトルの蓋を開けてあげていたの」
入院していた時の萌子さんの様子の話しを実亜から聞いていた。
指も曲がっていた。
その様相を鷲の手に似ているので、鷲手と言うそうだ。
10時で解散になった。
高校の修学旅行より早い。
萌子さん夫婦は、これから風呂に入ると言っていた。
僕達はそれぞれ、夫婦の部屋に戻った。
さっきまで、元気だった実亜は、はしゃぎ過ぎて疲れたのか、ベッドの端に座って、ぼーっとしていた。
「どうしたの?」
僕は実亜の隣りに座って覗き込んだ。
「ううん。別に」
頭を横に振ってから、
「来なきゃ良かった」
と、つぶやいた。
僕は実亜のこの言葉をもっと真剣に受け止めるべきだった。
僕もそう思っていたし、萌子さんのことが気になって、実亜の言葉に心非ずだった。
それが、僕達夫婦の人生が狂うことへのつぶやきだったとは、思いもしなかった。
続く
最後まで、読んで下さりありがとうございます。
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。
愛川るな
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