第28話
奈津子は父がいる家で、弟と話したくないと思った。
父がいると、例え自分の部屋で弟と二人きりで話したとしても、落ち着かない気がした。
弟も父がいると、本当のことを話す
ことを躊躇うかも知れない。
喧嘩にならないようにしたいが、もしなってしまって、そこに父が来て絡んできたら、また、弟は暴力を振るう心配があった。
多分、自分には弟は暴力を振るわないと、奈津子は思った。
どこで、話そうか…
舞さんに頼もう。
舞さんのマンションの一室を借りるしかない。
あまり大きくないが、舞さんは輸入雑貨のお店を中央区に構えていた。
11階建ての最上階の部屋は見晴らしがいい。
家具もインテリアもみなおしゃれで素敵だった。
舞さんは独身なので、家族に気兼ねすることもない。
面倒見のよい舞さんに甘えよう。
舞さんに頼るしかない。
奈津子の考えは確実なものになり、
決定された。
奈津子は舞さんに携帯電話をかけた。
電話に出た舞さんは、実は自分も弟に話しを訊きたかったと、言ってくれた。
承諾を得た奈津子は、弟に電話をかけて、舞さんのマンションにくるように促した。
「舞さんのマンションに?」
弟は渋っているようだった。
「姉ちゃんや舞さんに何を話せって言うんだよ」
弟は投げやりな言い方をした。
「何もかも全部よ。お母さんがどんな風に階段から、落ちて行ったのかもね」
奈津子は刺激しないように言うつもりだったが、湧き上がる感情を抑えることが出来なかった。
「姉ちゃんもぼくが母さんを突き落としたと疑っているのかよ」
「えっ!?何を言っているのよ!誰もそんなこと言っていないでしょ」
奈津子は取り繕ったが図星だったので慌てた。
「ぼくは行かないよ」
弟は拒んできた。
「私の言い方が賢ちゃんの気に障ったのなら謝るわ。でもね、賢ちゃん、私、久保先生にも会いたいと思っているの。だから、その前に賢ちゃんと話しがしたいの」
「ひよこと?」
「そうよ。お母さんをひどく傷つけた人よ」
しばらく、間があった後、弟のため息が聞こえてきた。
弟にとっても、憎い相手のはずだ。
「分かった。行くよ。今から出る」
奈津子が腕時計を見ると、6時ちょっと過ぎていた。
「7時過ぎに舞さんのマンションに着くわね。私は先に行って待ってるから。舞さん、カレーライスを作っておくって、言ってたわ」
弟の微かに笑う声が聞こえてきた。
舞さんの手作り料理というと、今までカレーライス以外に出たことがなかったからだ。
奈津子は西に向かって、今来た道を大通りまでもどって行った。
外はまだ明るいが、ずいぶんと太陽が西に傾いていた。
オレンジ色の太陽の光りに染められるのは、今の奈津子には辛かった。
奈津子と弟、舞さんは、舞さんのマンションのリビングのソファーでくつろいで、食後のガラナを飲んでいた。
コーラに似た赤褐色のガラナが、弟は好きだった。
母がガラナはカフェインやカテキンを含んで滋養強壮にもいいからと、半分、からかうように弟に飲ませたのは、弟が小学校低学年だった。
弟が一口飲んだ時だ。
強烈な味を経験した弟は、しかめ面して、腰を二つ折りにすると、ううっと唸って、上体を左右に揺らした。
その格好が可笑しくて、みんなで大笑いしたものだ。
奈津子はそんな楽しい思い出に、遠い目をした。
しかし、それからというもの、このインパクトの強い味は後を引いて、弟の大好きな飲み物になった。
舞さんは、それを知っていて、わざわざ用意をしてくれたのだ。
奈津子は舞さんの心遣いがありがたかった。
そこで、舞さんが口火を切った。
奈津子も弟も、言い出すきっかけがみつからなくて、押し黙ることが多くていたたまれない空気だったのだ。
「ねえ、賢ちゃん。朝早く、賢ちゃんの家から飛び出して行った男の子って誰だったの」
奈津子もそれとなく、それを聞いていて、気になっていた。
「そんなのいないって、警察でも言って、けりが付いているのになんで蒸し返すんだよ」
弟は、むうっとした顔で言った。
「賢ちゃん、嘘を言わないの」
今まで、聞いたことのない舞さんの厳しい声だった。
「それに、どうしてそんなに隠すの?別にそういう男の子がいたからって、隠すことでもないでしょ」
「分かったよ。いたよ。航平が来た時、ちょうど、母さんが階段から、落ちたんだ。航平を巻き込んでめんどくさいことになるのが嫌だったんだよ。それに…」
弟は、続きを言おうとして、口をつぐんだ。
「それにって、何よ?言いかけて止めるのは卑怯でしょ」
奈津子は弟を急かした。
「もう一人いたんだ」
これを言ったことで、弟の顔が幾分楽になったようだった。
「誰が?誰がいたのよ」
奈津子が詰め寄った。
「クラスの女の子」
奈津子も舞さんも、きょとんとした
。
「常盤靖子という女子がぼくと一緒に二階にいたんだ。航平に知られてめんどくさいことになるのが嫌だったんだよ」
奈津子も舞さんも、弟の話しをにわかに受け止められなかった。
つづく
最後まで読んでいただき、感謝いたします。