地下鉄のホームで、私は電車を待っていました。
すると、一人の女の人が、私の1メートル前で立ち止まり、かしこまって一礼をしました。
私は、訝しく思いながらも、頭を下げました。
なぜなら、彼女は、全身真っ黒づくめの衣装に身を包んでいたからです。
まだ太陽の日差しの強いこの季節に
その黒い衣装はそぐわない感じがしました。
顔も真っ黒なサンバイザーを目深にてかぶっていたので分かりません。
なおも、訝しく見ていた私の前でやっと、サンバイザーのひさしを上げて、顔を見せてくれました。
目鼻立ちがはっきりした若くて、綺麗な顔が現れました。
化粧気のない白い顔の中の黒く縁取られた瞳が、真っすぐ、私を捉えていました。
けれども、私は彼女が誰なのか、どうしても分かりませんでした。
きっと、私の知らない人なんだ、と思ったほどです。
彼女は少し私に近付くと、小さな声で、でも、はっきりと
「前に、同じ部屋に入院していたことがあるんです」
そう、伝えました。
そう言われても思い出せません。
入院生活4か月半の中で、たくさんの病友と話し、笑い、寝食を共にしてきましたが、ほとんどの人のことは覚えています。
でも、彼女のことは分かりません。
私は彼女の顔をじっと見ました。
こういう時は、誰かの名前を言わないと失礼かなと、思った私は、若い子で一緒だった子の名前をとりあえず、懐かしい気持ちで呼びました。
「ああ、K子ちゃん!」
「いいえ、K代です」
「ああ、K代ちゃん!」
それでも、思い出せない私を察してくれたのか、彼女は話しを始めてくれました。
「あの時、私は3日間しか入院していなくて、カーテンを締め切っていたんです」
そこで、私はやっと思い出しました。
そうそう、そういう変わった子がいたっけ。
私の向かいの真ん中のベッドで、一日中カーテンを締め切っていた子だ
。
私が思い出していると、彼女が続けてその時のことを話しました。
「本当は、私もカーテンを開けて、みなさんとお話ししたかったんです。でも、ちょっと、あの時は出来なくて」
彼女はカーテンをほんの少し開いて出て来る時も、伏し目がちにて、誰とも目を合わせようとしませんでした。
「おはよう」と、声をかけてもあいさつを返さない彼女に、誰も何も言わなくなくなりました。
私の隣りのベッドのAちゃんが、どう対応していいのか、看護師に相談
しました。
「何も話しかけなくていいよ。看護師も必要以外のことは話しかけないように言われているの」
そう言われて、納得したものの、彼女の両側は暗い。
特に廊下側の人は、暗い。
それにみんなの顔を見られないので、話しもままならない。
明るかった部屋に陰気な空気が流れました。
それでも、彼女の私達の印象はとても楽しそうだったそうです。
「私が入院した時、ちょうど手術の前の日でしたよね」
と、彼女に同意を求められても私は
覚えているはずもなく、答えに窮していると、
「手術の日は食べられないからと、前の日に甘い物をたくさん、食べていましたよね」
確かに、その通りでした。
カーテンの向こう側で、彼女はしっかり、話しに参加していたんだ。
やがて、電車がきて、乗ることになりました。
彼女の下車する駅より前の駅で、降りる私に付き合って、彼女も「急いでいないから」と途中で降りてくれました。
そして、ホームでメールアドレスの交換をしました。
それから、少し話しをして彼女をホームに残し、手を振って別れました。
彼女は、太陽光アレルギーを持っている病気だと教えてくれました。
あの3日間の入院は、太陽光をどのくらいまで浴びて大丈夫なのかと、いう検査入院だったと、教えてくれました。
彼女は黒い衣装を格好良く着こなしていました。
今、トレンドのトレンチワンピースのベルトをウエストで縛っていましたが、そのウエストの細さが強調されていました。
だった3日間だけの病友でした。
しかし、彼女はカーテンを締め切っていました。
一度も話しをしていません。
「よく、私のことが分かりましたね」
「憧れていました。いつか会いたいとずっと願っていました」
照れくさい言葉でしたが、嬉しかったです。
何に憧れてくれたのか知りたかったのですが、さすがに、聞くことは、はばかれました。
それはともかく、人の出逢いとは、
本当に不思議なものです。
もし、同じ病室にならなかったら、こんなことは、有り得なかったでしょう。
しかも、私にとっては、言ってみれば、ただの通りすがりの人です。
こんなこと、ついさっきまで、私の人生に起こることだとは考えもしませんでした。
「元気になって良かったね」
と、言うと、
「これから、元気になります」
微かに笑っていました。
彼女の心の闇は、きっと、私には計り知れないものでしょう。
彼女から、直ぐに可愛いメールが届いていました。
その時、その場で親しくならなくても、こんな再会の仕方もあるのだなと、本当に不思議に思いました。
太陽の日差しが強いその日、私は病院の帰りでした。
彼女も病院の帰りでした。
これから、病院で会えるねと、しっかりと顔を合わせて、笑いました。