今日は母の四十九日です。

 母は病院で点滴に繋がれたまま亡くなりました。

 父にはそうなって欲しくないという思いから、できるだけ在宅介護をして、自然に天寿を全うできるようしたい。

 それで、訪問診療及び訪問看護の契約をしました。

 医師は月2回訪問、看護師は毎週訪問してくれます。

 その上、実務経験豊富な介護福祉士(私のこと!)が同居してお世話しているとあれば、これはもう、父にとって最強の環境でしょ~?

 これで父を在宅で看取れる準備が整ったので、安心になりました。

 

 母の告別式が終わった翌朝から、父はひどく憔悴していて、もう本当に父も亡くなるんじゃないか?と思った。

 父は母が亡くなる少し前に閉塞性黄疸で入院して、胆管がんの疑いのまま退院しているので、また胆管が詰まってしまう恐れもあります。だからこれからどんどん弱っていって、もう長くはないだろうと思われました。

 それで地域包括支援の担当者に強気で言って、介護認定の区分変更をお願いしました。

(実は退院したばかりの時にもお願いしたのですが、まだ早いと言って応じてくれなかったのです)

 父は一番軽い要支援1で、96歳の今まで一度も介護保険を利用したことはありません。しかしもう、これはどう見ても要介護2か3以上でしょう? 

 たぶん要介護になるだろうという見込みで、母のケアマネだった人が父の仮ケアマネになってくれて、私の希望する訪問診療及び訪問看護の打診をしてくれました。

 

 ところが、思いがけず父は回復して元気になっていったのです!

 今から思うと、意識が朦朧となっていたのは「脱水症状」だったのかもしれません。だからアリナミンゼリーをせっせと飲ませたら回復したんだね?

 

 シャワー浴介助は私ができるし、入院中に褥瘡になりかけていた足の指や踵にも亜鉛華入り軟膏を塗布していたら治ってきています。足の浮腫みも引いてきてる。

 ごはんもちゃんと食べてるし、今のところ、何も問題ありません。

 そういうわけで、せっかく訪問看護師が来てくれても、バイタル測定くらいしかやることないって感じ。

 それでも、在宅で看取れる環境の準備は、元気なうちにしておく必要があるのだと、母のことで身に染みてわかっています。

 

 父は今のところ元気で落ち着いているとはいえ、いつまた急変するかわかりません。

 もうすぐ97歳になるのだし。

 いや、今の元気な様子を見ていると、まだまだ100歳過ぎても生きているに違いないとも思えてくる。

 でも、気が付いたら息が止まっていた、なんてこともありうるでしょう?

 そんな時に、訪問診療を受けていれば警察を呼ばなくてもすみます。つまり、殺人や虐待を疑われずに済むということ。

 

(これは夫婦二人暮らしで老々介護をしていた人の話ですが、ある朝奥さんが起きて来ないので見ると息が止まっていた、それで警察が来たと言います。愛する妻を、毎日心を込めて介護していたのに、警察に尋問されて悔しくて悲しくなったと、泣きながら話していました)

 

 抹消点滴は延命治療ではないと言います。確かに、例えば熱中症で死にそうになっている人に抹消点滴をするのは適切です。それで生き返って元通り元気になれるのだから。

 でも母の場合は、経口摂取ができなくなった状態で、回復の見込みがないのに点滴で生き永らえていたわけで、明らかに延命治療でした。

 面会に行く度に痩せていく母を見るのが辛かった。いつも苦しそうな表情をしていました。この点滴は苦しみを長引かせているだけだと思った。

 もっとも抹消点滴では栄養が足りないから痩せていくわけで、中心静脈の点滴にすれば栄養が入ります。でもそれは延命治療になります。私は延命を望まないと言ったので、抹消点滴になっていたわけです。

 しかしもはや、瀕死の状態の母を家に連れて帰ることは、考えられませんでした。

 だから、介護医療院に転院した時に、点滴を半分に減らすと言われてホッとしたのでした。

 介護医療院には実質3日間だけの入院でしたが、転院できて良かったと思っています。

 

 父の訪問医療の契約に行った時に、看護師から急変時の対応について聞かれたので、この話をしました。

 回復の見込みがないのに入院して点滴で延命したくないと。それは父本人もそう望んでいることです。父は「苦しまずに自然に終わるのが良い」と、意思表明しています。

 救急車を呼ぶべきかどうかの判断も、まず24時間対応の訪問看護師に相談ができます。

 例えば、また黄疸が現れた場合だったら、入院して内視鏡手術をすれば回復するので病院に搬送して貰います。でも、老衰状態だった場合は、そのまま在宅で看取る方向にしたいと伝えました。

 

 ただ一つ問題なのは、私がいつまで在宅介護ができる状態でいられるかどうか?

 父が長生きするということは、私も老いていくということです。

 できる限り在宅にしていたいけれど、私自身がどうしても限界になった場合には、介護医療院に入って貰わなければならないかもしれません。

 

 母が亡くなって1ヵ月過ぎた頃から、母の物を捨て始めたら止まらなくなって、毎日たくさんのゴミを出して出して出しまくっています。

 こういうのを、断捨離と言うのね?

 母のお世話のために実家に引っ越して来てから10年目になるのですが、この年月の思いを全部捨ててスッキリさせていく行為に思えた。

 ネットによると、断捨離とは、不要なモノを断ち、モノへの執着から離れることで心身ともに快適な人生を手に入れる生活術、思想、とある。

 単なる片付けではなく、モノを軸にする「物軸」から自分を軸にする「自分軸」へ転換するプロセス。

 なるほど、これだね!

 母の物を捨てる行為は、母に縛られていた年月を捨てて、自分の人生へ転換するプロセスなんだね!

 

 家の中がどんどん片付いていくのが気持ち良くて、部屋が広くなったら、心の中も風通しが良くなった気がする。

 今までずっと息が詰まる生活をしていたんだなとわかった。

 気持ちの整理、気持ちの区切りをつける為に、断捨離は必要な行為なのね。

 だから、なんでも新しくしていく。例えば、お風呂洗いのスポンジでも、まだ使えるけど捨てて新しいものに交換します。

 しかし母の大きい箪笥が2つも鎮座していて、その中にはぎっしり着物が収納されています。それにはまだ全然手を付けていません。

 古いレコードや宝石類も、どうしたらいいのやら? 夏目漱石の千円札も10枚くらい発見したりして。

 

 私が死んだ時にも、私の物を捨てるのに子供たちに苦労させてしまうんだろうなあ?

 私だっていつ突然死するかわからないんだから、生きているうちにできるだけ捨てておくべきだろうけど、まだ死なないだろうと思ってるから、どうしても捨てられないんだよね。