第47代天皇 淳仁(じゅんにん)天皇 在位期間758年~764年
大炊王(おおいおう)。天武天皇の孫。父は舎人親王※。
733年生まれ。数え26歳のとき孝謙天皇からの譲位を受けて即位。光明皇太后と藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ。改名し、恵美押勝[えみのおしかつ])の意向と言われている。
760年光明皇太后が数え60歳で崩御すると、法相宗の僧・弓削道鏡(ゆげのどうきょう)が台頭し、孝謙上皇&道鏡と淳仁天皇&恵美押勝が対立。
764年恵美押勝の乱(藤原仲麻呂の乱)の後、数え32歳で淡路廃帝となる。
765年配流先で逃亡を試み数え33歳で崩御。表向きは病死だが、殺害説が有力。
※舎人親王 とねりしんのう。天武天皇の子。母は持統天皇の異母妹(天智天皇の娘)。草壁皇子や大津皇子の異母弟。日本書紀の編纂者の一人。735年大流行が始まった天然痘により数え60歳で没。没後に子が即位したため、崇道尽敬皇帝(すどうじんきょうこうてい)or尽敬天皇(じんきょうのすめらみこと)の追尊を受けた。ちなみに舎人ライナーのネーミング元であるという説もあるが、有力ではなく、「現在の足立区舎人の地域に戦国時代に舎人氏が住んでいたことから地名になった」など全く違う説が複数ある。
762年唐 タン の詩人・李白(りはく リー・バイ。701年生)が数え62歳で没。
★李白の代表作、五言絶句(ごごんぜっく ウー・ヤン・ジュエ・ジュー)『秋浦歌 其十五(しゅうほのうた そのじゅうご チィウ・プー・グー チー・シー・ウー)』
白髪三千丈 バイ・ファー・サン・チィエン・チャン
縁愁似箇長 ユアン・チョウ・スー・グー・チャン
不知明鏡裏 ブー・ヂー・ミン・ジン・リー
何処得秋霜 フー・チュー・ダー・チィウ・シュアン
はくはつさんぜんじょう。
うれいによってかくのごとくながし。
しらずめいきょうのうち。
いずれのところにかしゅうそうをえたる。
(口語訳)私の白髪は三千丈ほどあるだろうか。※
愁いによってこのように長くなってしまった。
澄んだ鏡の中を見ていても気づかなかった。
どこで秋の霜にも似た白髪を身につけたのだろうか。
※ 当時の中国で1丈は約3.33m、日本では約3.0303m=10尺=100寸。
★李白の代表作、七言絶句(しちごんぜっく チー・ヤン・ジュエ・ジュー)『早発白帝城(つとにはくていじょうをはっす ツァオ・ファー・バイ・ディ・チョン)』
朝辞白帝彩雲間 チャオ・ツー・バイ・ディ・チャイ・ユン・ジィエン
千里江陵一日還 チィエン・リー・ジィアン・リン・イー・リー・ハイ
両岸猿声啼不住 リィアン・アン・ユアン・シェン・ティー・ブー・チュー
軽舟已過万重山 チン・ジョウ・イー・グオ・ワン・チョン・シャン
あしたにじすはくていさいうんのかん、
せんりのこうりょういちじつにしてかえる。
りょうがんのえんせいないてやまざるに、
けいしゅうすでにすぐばんちょうのやま。
(口語訳)朝焼け雲に染まる白帝城に朝早く別れを告げてから、
千里も離れた江陵まで一日で着いた。
私の乗る船が進む川の両岸からは猿の鳴き声が絶えず聞こえ、
その鳴き声がやまないうちに船はすでにたくさんの山々の間を過ぎていった。
★李白の七言絶句『別内赴徴三首 其二(うちにわかれてちょうにおもむくさんしゅ そのに ビエ・ネイ・フー・チョン・サン・ショウ チー・アール)(意訳)妻子と別れて出世のため都に赴くときに詠んだ3首その2』
出門妻子強牽衣 チュー・メン・チー・ズ・チャン・チエン・イー
問我西行幾日歸 ウェン・ウォー・シー・シン・ジー・リー・グイ
來時儻佩黃金印 ライ・シー・タン・ペイ・ホゥアン・ジン・イン
莫見蘇秦不下機 モー・ジィエン・スー・チン・ブー・シィア・チー
門を出ずれば妻子強く衣を牽き(もんをいずればさいしつよくいをひき)、
我に問う、西行幾日か帰ると(われにとう、さいこういくにちかかえると)。
来たる時儻し黄金の印を佩ぶれば(きたるときもしおうごんのいんをおぶれば)、
蘇秦が機を下られざるを見る莫からん(そしんがきをくだられざるをみるなからん)。
(意訳)門を出ると、妻子は私の袖や衣にすがりついてきた。
そして「都に行ったらいつ帰ってくるの?」と尋ねた。
そこで「もし、帰って来たとき、出世して黄金の印綬を帯びていたら、
蘇秦の妻は機織りして出迎えなかった故事を学んで出迎えてくれ」と明るくユーモアを交えて答えた。
(解説)742年、李白が数え42歳のとき、離れ離れに暮らしていた妻子と一緒に暮らすため妻子の住む街に向かうが、その途中で唐の都・長安(ちょうあん チャン・アン。現、西安[せいあん シー・アン]での出世話が舞い込んだため、妻子に会ってすぐ一人で長安に向かうことになった。妻と子(数え10歳の娘と数え7歳の息子)は別れを悲しんだが、李白は意気揚々と明るくユーモアを交えて答えた。
蘇秦(そしん スー・チン。生年不詳~紀元前317年?没)は戦国時代(せんごくじだい チャン・グオ・シー・ダイ。紀元前453年or紀元前403年~紀元前221年)の縦横家(じゅうおうか ゾン・ハン・ジャー)。合従策(がっしょうさく フー・ツォン・ツー)、故事成語「鶏口牛後(けいこうぎゅうご ジー・コウ・ニィウ・ホウ)。鶏口となるも牛後となるなかれ(意味)大きな集団の中で尻にいて使われるよりも、小さな集団であっても長となる方がよい」で有名。若い頃出世できず郷里に帰ったら、妻は機織りの手を休めず出迎えもしないなど、家族から冷たい仕打ちを受けたという故事に基づいている。
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★杜世忠(とせいちゅう ドゥー・シー・ヂョン)の辞世の句
出門妻子贈寒衣 チュー・メン・チー・ズ・ツン・ハン・イー
問我西行幾日歸 ウェン・ウォ・シー・シン・ジー・リー・グイ
來時儻佩黄金印 ライ・シー・タン・ペイ・ホゥアン・ジン・イン
莫見蘇秦不下機 モー・ジィエン・スー・チン・ブー・シィア・チー
門を出ずれば妻子は寒衣を贈り(もんをいずればさいしはかんいをおくり)、
我に問う、西行幾日か帰ると(われにとう、さいこういくにちかかえると)。
来たる時儻し黄金の印を佩れば(きたるときもしおうごんのいんをおぶれば)、
蘇秦が機を下られざるを見る莫からん(そしんがきをくだられざるをみるなからん)。
(意訳)門を出ると、妻子は寒さを凌ぐ衣服を贈ってくれた。
そして「都に行ったらいつ帰ってくるの?」と尋ねた。
そこで「もし、帰って来たとき、出世して黄金の印綬を帯びていたら、
蘇秦の妻は機織りして出迎えなかった故事を学んで出迎えてくれ」と明るくユーモアを交えて答えた。
(解説)1275年、文永の役の翌年、元(げん ユゥエン)の正使としてモンゴル人の杜世忠・ウイグル人2名・唐人1名・高麗人1名の計5名が来日するが、執権・北条時宗は鎌倉龍ノ口で斬首にした。杜世忠は辞世の句を残しているが、その漢詩は李白の漢詩を二文字だけ変えたもの。出世して家族のもとに帰る望みを果たせなかった無念の思いが伝わる。
神奈川県藤沢市の常立寺(じょうりゅうじ)には杜世忠らを弔う元使塚があり、2005年(平成17年)には朝青龍や白鵬らモンゴル出身力士が参拝、その後も毎年藤沢巡業の際にモンゴル出身力士が参拝するようになった。2007年(平成19年)には来日したモンゴル大統領も参拝している。
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(雑感)
今日のお題は、「李白(りはく リー・バイ)、杜甫(とほ ドゥー・フー)、白居易(はくきょい バイ・チュー・イー。白楽天[はくらくてん バイ・ラェ・ティエン])」という風に中国史上最高の詩人の一人と言われている唐の詩人・李白、その詩風である「自由で豪快」です。
「自由で豪快」
すっごく良い響きですよね。
良いですよねー、そういう人生。
李白のエピソードを見ると、ホントに自由で豪快な性格で、酒豪で、強気なタイプですよね。
『早発白帝城』なんて安史の乱で敵に捕まり釈放されたときの詩ですからね。「よくまあこんな強気な詩が浮かぶなぁ」と感心します。
でも、難しいですよねー、自分がそういう人生を歩むのって。
私なんか、嗅覚障害者ですからね。
なかなかそうはいきません。
だから、羨ましく思えちゃいますね。
そもそも、「自由で豪快」って、なんでしょうね?
まあ、
「私の白髪は10キロメートルもある。」
「私の乗った船は千里の距離を一日で着いた。」
「私の乗った船は万重の山々を通り過ぎていった。」
こんなことを堂々と詩に書ける性格は、確かに、「自由で豪快」でしょうね。
ちなみに、いつものフリーの写真サイトで「豪快」で検索すると、ステーキの写真が出てきます。
おおー。
おおー。
確かに、こうして見ると「豪快」って感じですね。
嗅覚障害者の私にはグルメ趣味は向いてないので、「よし!じゃあ、特大ステーキを食べることにしよう!」ってわけにはいきませんが、「勇気を出して嗅覚障害に取り組む」ことはできます。
こうやって嗅覚障害のブログを書くのも、なかなかどうして、勇気が必要なんですよ。
私としては、充分、勇気を出して頑張ってるつもりなんです。つまり、これが私なりの「豪快」です。
でも「自由」なのか?というと、もちろん、そうは思ってません。
何しろ、私が嗅覚障害に取り組んでるのは、私自身が物心ついた頃から嗅覚がないから、つまり、運命です。
どう考えたって、自由とは言えないですよね。
これはやむをえません。
そう思うと、
「良いですよねー、『自由で豪快』って」
「良いですよねー、李白」
と、あらためて羨ましく思えるわけです。







