私は今までの人生で、自分よりも誰かのことを優先したり、自分が喜ぶことより、違う誰かが喜ぶことの方が価値があるとなんとなく思い、自分の気持ちを後回しにしていることが多かった。そして、それが立派な生き方なんだと無意識に思っていた

 

私はいろいろな出来事があっても、ただひたすら、今の自分がこの人のために出来ることは何か?いつも考えていた。その思考の中には、いつも自分自身は後という思想があった。

自分は我慢するのが当たり前、誰かの幸せのために犠牲になっても当たり前という無意識の思考が私自身を支配していた。

 

誰かの幸せのために自分自身を犠牲にすることこそ、立派な生き方なんだと。心の中で思っていた。

 

これはよく宗教などの経典などで、推奨される生き方などで、一見するととても立派で何も問題がないように思える。自分自身もこの考え方の何が問題なのか?長いこと理解できなかったくらいだ

 

この思考が間違っているよ。と指摘されたのが、私自身の結婚生活だったのかもしれない

 

尽くせば尽くすほど、怒りをぶつけてくる相手。その怒りは、じっくり観察すると、本来自分自身の母親に対してぶつけられなかった怒りを、代理で私という女性に対してぶつけている怒りだったように感じた。

 

そんな状況の中で、私は自分自身の悲しみに対して、自分自身の気持ちを無視し、相手を自分の人生の一番に持ってゆき、自分という存在を無視していた。

 

離婚して、とうとう一人きりになって、人生の中心に考える人物というものがなくなった時、心にぽっかり穴があき、これからどうやって生きていき、何を支えに生きてゆけば良いのかわからなくなってしまった

 

皆みたいに離婚して子供でもいれば、その子を中心に人生を考えたのかもしれないが、両親は遠い土地に住んでおり、親類はいない、子供もいない。さて自分の人生は自分一人しかいなくなってしまった。

 

それから数年間、必死に新しく愛をそそぐ相手を探すことになるけど、都合良くそんな相手など見つからない。恋人を見つけたら、偉そうな態度で接してくる相手になるし(笑)友人相手に依存しても、相手には相手の家族がいるし、他の友人だっている。誰かを人生の中心に置くという発想そのものが間違っていることに気付くまで、数年かかった。

 

さて、とうとう誰も人生の中心に置く相手が見つからなかった。

 

 

その時になってやっと、今まで誰かを大切に思い、情熱を注いでいたくらいの力を、自分自身に向けたら、ものすごい成果が出るのではないか?と思うようになった

 

新しい勉強をし、自分自身に投資をする。という、たぶん世の中の人間が当たり前にやっていると思う(笑)事実に初めて気付くことになった。

 

そして今まで誰かにかけていた愛情を自分自身に対して行う。 自分が喜ぶことを大切にし、嫌なことはちゃんと断り、今までは欲しいものを誰かが欲しいといったら、その人を優先して譲るということを繰り返してたけど、自分が欲しいものは、欲しいときちんと主張するようになり、自分を大切にするという意味を理解するようになっていった。

 

愛する相手がいないという究極の状況になり、初めて。ああ自分自身を愛すれば良いのだな。と理解できるようになった。

 

 

誰かに依存する必要もないし、誰かに幸せにしてもらう必要もない。そう本当に大切にするべきは、今まで後回しにしていた自分自身だったのだ。

 

 

それからは、いろんな習い事や旅行や、自分自身が今までやりたかったこと、行きたかった場所。誰にも遠慮せずに行うようになった。

 

自分自身の心がどんどん暖かくなり、解放されてゆくのがわかった。 今までこんなに寂しかったのは、自分が自分を置き去りにし、本当に寄り添い愛情をかけてなかったということが今になってやっと分かったのだ。