私は幼い頃から、やりたくないことをいかにやらずに済むことが出来るか💦というのを真剣に考えていた(笑)

学校の宿題はいかにさぼれるかを考え、押し付けられる勉強より、好きな小説や科目を読むことばかり考え、どうすればそれらの押し付けられる課題から、無難にすり抜けられるかを真剣に考えていた(笑)

 

 

つまり、学校の成績で上に行こうと思ったこともなく、良い大学や良い就職先、良い結婚相手とかも興味がなく、自分の趣味だけに没頭する。まあ今でいうとこのオタク気質ということですね

 

 

世の中では、我慢して何かを成し得るということが当たり前みたいで、努力や根性というのが素晴らしいものであり、その先に幸福であり、成功が待っていると皆が信じていた

 

私はその皆の価値観の中で、それらの人達が信じていることから、何となく他人事のように物事を眺め、嫌いな科目は、とりあえず文句が出ない程度、平均点を取れる程度に勉強をし、高校受験は、なんとなく無理に勉強しないで行ける程度のとこ。決められた枠の中で、したくないことを無理に努力する意味が分からず💦 どうしてもやらなくては仕方ないことがあれば、自分流にしていかに楽しくやるかを工夫しようと思っていた

 

私は決して、勉強することそのものが嫌いではないし、読書も好き。ただし自分が興味があることのみ(笑) 

 

世の中の人の中には、努力=我慢が同意味に使われることが多いけれど、私の努力は楽しみと同義語のような気がする。

 

私は21歳からゴルフ場のキャディをしているのだけど、最初は人づきあいの苦手な私が、一日中おじさん達を相手にし、仲良くしたりアドバイスしたり、機嫌損ねたりと、仕事が嫌でもうすぐにでも辞めたかった(笑)

 

そのうちに、ゴルフが好きになり、ゴルフが出来るから仕事を続けようと思った

 

そのうち考えるようになる。仕事中も自分自身の人生なのだから、自分の人生のうちどれだけ仕事の時間と関わっているのだろう?嫌だ嫌いだ。我慢する。休みの日のためにお金を稼ぐために、欲しいもののために?

 

そんな考え方してたら、人生の80%は仕事の時間なのだから、80%を我慢して生きるだけということになるんじゃないかしら?なんともったいないのだろうと

 

 

私は幼い頃から、人間は何のために生きて、何のためにここにいるのだろう?という答えのないことをずっと考えていた

 

 

仕事とは我慢すること。ほとんどの人間はそんなふうに思っているように私には感じた

 

ある日、仕事の中に楽しみを見つけようと思うようになった

 

 

それがその日、私が生きていた意味になるのではないかと

 

 

この人は今まで、このゴルフ場に来るまでにどんな人生を歩んで来たのか?どういうことが好きで、どんなことが嫌い。どんな価値観を持って生きているのか?一人ずつ観察することにした(笑)

 

その人達、一人一人の人生は、どんな小説よりも多くのことを物語っているのだと思う

 

そしてコースに咲いている花に目を向け、雲の形を見て、鳥の声を聴き、グリーンの芝を徹底的に覚え、誰から評価されるためでもなく、自分一人でいろんなことを勉強した。それは努力という楽しみであった。誰かに評価されるために我慢してやっているわけでなく、自分一人で楽しむためにやっていた

 

 

我慢と努力の方向性は、傍目に同じように見えるけれど、何が違うのだろう?と思った

 

 

結局は、人から評価されることを目標とするか。自分が満足するためにするかの違いだと思う

 

私が人より少しだけ、幸せだったのは、人からの評価をあまり期待したことがないという点だったと思う。

 

実は、私は元夫から「私は努力も我慢もせずに、馬鹿でだらしなくていいかげんだ」とずっと結婚している間。言われ続けてきました💦

 

正直、私が行う行動は、我慢して何かを達成するということは、ほとんどなくて、いつも楽そうに楽しみにやっていることを、淡々と行っていた

 

あまり努力をしているふうに見えないのですが、とりあえず結果はいつも出す私を、毛嫌いしていたように感じてました。

 

 

ボーリング大会や、ゴルフでベスグロを出した時も、ものすごく嫌そうな顔をし、何かをミスしたときは、とても嬉しそうに、いつまでも同じ話を続けてました💦

 

ちなみに、私は元夫から、いろんな悪口を言われても、自分がダメだとか劣っているとか、まったく思ったことなかったです(笑)むしろ、元夫は可哀そうな人であり、私が助けて幸せにしたいと、いつも願ってました。

 

最後まで、その願いは届きませんでしたが、どこかで幸せになってくれていれば良いと今は思ってます。