私達は、怒りや不機嫌で周囲をコントロールし、自分の望みを叶えようとするときがある。そしてそれが問題なのは、それがうまく行ってしまう場合が良くあることなのだ

 

私は長い間、人と人が仲良くするには、相手を不機嫌にしないこと。相手の嫌がることをしないこと。自分から動くこと。だと思っていて、それ自体は言葉にすると、決して悪いことのような感覚はしないけど、それだけが正しいと思うことが問題であると今年になって初めて気付いた💦

 

時には、それが正しい場合もあるし、そうでない場合もある。

 

すべての物事は、正しいと一方向に決めてしまっては、物事の本質を見失う場合がある。大切なのは、自分自身を第3者の目で見て、自分の感情と行動を切り離し、「ひよっとしたら、私が間違っているのかもしれない」という視点を忘れないことなんだと思う

 

 

誰かから何かを言われて、怒りを感じたり、モヤモヤした言葉を聞いた場合は、その言葉の中のある意味、真実が含まれている場合がある。

 

もちろん、相手の勘違いもあるし、そんな受け取り方するんだ。とびっくりすることもある。

 

ただ相手がそのことを伝えてきた場合、私とうまくやりたいからわざわざそういうことを言ったのだ。とまずはそういうふうに誤解させたことについて、反省したり、私はこういうふうに思っている。と伝える場合がある。

 

私が何か言われた場合は、怒りにまかせて、すねたり腹を立てたり、口を利かなくなったりなどの対応はしないようにしている。必ず口を開く時は、愛のある言葉を意識して使うように心がけている。

 

 

それでも、相手からは、「言い訳ばかりして、全然反省してない」など言われることもある。そういう人とは、残念だけど距離を取って少しだけ離れるようにしている。そのうちまた縁があれば、仲良くできるかもしれないし、そうでないかもしれない。人間関係には無理をしない。ということも大切だと思う。

 

一番大変なのは、友人ならそれで通用するのですが、家族などは、一緒に暮らす以上、どうしても機嫌が悪くても、人生がうまくいかない時でも、そばにいるしかないというのが大変だと思う

 

 

最初の話に戻るけど、人と人が上手くいくのは、機嫌が良くて、相手の嫌がることをしない。相手を不機嫌にしない。ではなくて、自分が機嫌が悪いときでも、相手に対して愛のある言葉をかけられるか。愛のある態度を取れるかが重要になってくると思った

 

誰もが同じ感覚で生きてなく、誰かにとって嫌なことは、誰かにとって平気なこともあるし、そうでないこともある。自分は平気でも、相手が嫌だと伝えてきたら、分かったごめんね。今度からそういうふうに心がけるね。という気持ちで聞けるようになりたい。エゴが邪魔して、私は間違ってない。と言いたくなる気持ちはわかる。 だけど、間違っている間違ってない、だけでなく相手を不快にしたことに謝ればよいのではないかと思う

 

今まで、相手を不快にすることは、悪いことだと長年思って生きていたので、自分の不快な気持ちを相手に伝えることがとても苦手で、相手を怒らせるくらいなら、私が我慢すれば良いや。と長年生きてました。

 

だけど自分の不快なことを相手に伝えることは、自分自身への愛で、自分の気に入らないことを伝えられた時の相手の態度に、相手の懐の広さや、愛が分かってくると思う。

 

つまり伝えると言う勇気を出すだけで、互いに愛がある人かどうか、ということが分かる仕組みになっていると思う。