強く印象に残っている広告は、SONYの猿だったり、カップヌードルだったり。
広告は美しいクリエイティブ、優れたコピーワークでそれに触れる者を魅了し、虜にする時代を経て、生活者に必要なサービスへと変容していく時代を迎えるか?
広告それ自体に期待を抱く人が減少し、必要で便利なサービスの片隅に、「これって○○がやってんだ」という記憶を残すのか、好感を残し、生活者にエンゲージしていくのか?
生活者が自己発生的に発信を行う手段を手に入れて、世の中の新しい潮流に触れる手段がマスメディアや企業発信に限定されないようになり、もはや広告が生活者を追いかける、あるいは待ち構える時代が終わり、ある著名なマーケッターは生活者がプロダクトに近づいていく、ということを考え、ある著名な広告会社はエンゲージという表現で生活者との接点を模索していく。
興味関心の同一性を条件とする新しいセグメントが生まれ、そこには性年代をセグメントの条件とする考え方が、すでに過去のものであるという兆しが見え始めている。
確かに周囲を見渡すと、生活が高度になればなるほど、便利さを感じないものは身の回りから排除され、より容易に目的への到達をもたらしてくれるものが、その存在を確立している。
まさに広告が生活者との接点を創り出す方法は、その便利さを形作るしかない、担保するしかない。
身の回りに置いていただける魅力を、広告そのものが持たなくてはならない、そういう時代となってきているようだ。
