本当に死ぬかと思った・・・(地震を振り返って) | ♪じゅんちゃんの韓国生活♪ お役に立つならどこへでも☆ 韓国と日本の架け橋になりたくて~韓国美容も紹介中♪

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韓国で個人旅行のガイドをしているうちに美容皮膚科で仕事をすることに・・・あなたも誰にも知られずちょっとだけきれいになってみませんか?^^一度会ったらお友達~♪韓国を好きな人が増えてくれたら嬉しいです。。

地震が起きたとき私は海浜幕張の埋立地にある高層ビルの中で仕事をしていた。緊急放送が入り揺れだした。
(確かここ↓  2021.3.11 追加)

昔教員をしていたときに起震車で震度6を体験し、周りで見ていた子供たちがおびえて体験したくないと言うくらい悲鳴を上げた私。遊園地のジェットコースターもバイキングも公園のブランコもだめ、川くだりの舟も・・・

そんなものの比ではなかった。

隣のビルが鏡のようになっているので私がいるビルがどのくらい揺れているかが見えるのだ。ぐにゃぐにゃに曲がりながらゆれるのを見ていたら気持ち悪くなってしまった。免震構造になっているのですぐに揺れは収まらない。

机の下にもぐりながら遺書を書いたほうがいいかと考えた。でも 神様、ビルがつぶれても私は死にません!と声に出していった。
冷蔵庫の扉があき目の前を流れていく。
窓際のブラインドが揺れてカシャーンカシャーンと音を立てるので恐怖感を募らせる。
天井の蛍光灯がドンと落ちてきてぶらぶら揺れている。立つどころかしゃがんでいても体が飛ばされるので机の脚を必死につかんでいた。
大きな揺れが収まり、微妙な揺れになったところで避難してくださいと言われた。
ビルがギシギシいい、壁がぱらぱらと音を立てて崩れる非常階段を必死に下りた。

ニューヨークのグランドゼロが頭をよぎる。降りるまで間に合うか??

外に出たが埋立地だから液状化現象が起きていた。いたるところが盛り上がり、泥水が噴出している。道路がどんどん黒くなっていく・・・海のにおいがしてものすごく臭い。

駅のほうへ行ったが電車もバスも動いていない。交番に人だかりができていたのでいってみた。

おまわりさんが ここは高層ビルばかりで倒壊の恐れがありますからできるだけ離れてください。真横に倒れる危険性があります。 と言っていた。

広場では緊急避難場所へ誘導していたのでその指示に従っておおきな公園に行った。そこでは芝生の上でみなくつろいでいた。

私の心の中にはおばあちゃんから良く聞いていた戦争のとき空襲警報があったときの話が浮かんできた。

トイレを済ませておくこと。水を確保すること。食べるものを持っていること。復員して来たおじいちゃんがこれらをどうやってみなの役に立ったかを良く聞いていたのを思い出したのだ。

今のご時勢何かあっても翌日には救援物資が来ることが多い。一日何とか持たせられるようにしたらいいんだ。と公園のトイレにいき、並んでる人にちり紙を配ったり、ビニール袋を持っている人?と呼びかけて、トイレにちり紙を捨てないように、袋に捨ててつまらないようにしましょうと言った。

何も情報がないのが不安でたまらなかった。近くのイオンの店員さんも並んでいたので状況を聞くと、照明が落ちワインがわれ、休業状態だと言う。
車で来ていたお客さんは車を出すこともできずに避難したそうだ。建物全体が地盤沈下して歩道よりも入り口が低くなったと聞いた。

ここにいたら土地ごと海に沈むかもしれない。。。まずはここから離れよう。

販売機で水を買い、どんどんと歩いていった。潮の香りがする泥の中をずぶずぶ埋まるように歩いた。ハイヒールで行こうかと、朝悩んだが厚底靴で出かけていたのがよかった。ぎりぎり靴の中に泥が入ることは免れた。

途中開いていたコンビニでチョコレートや飴を買った。

自分がどこにいるかがつかめる、埋立地ではないところまで来たらほっとした。これから何時間歩くかわからないからまずはおなかを一杯にしておこう。腹が減っては戦は出来ぬ。目の前にあった小さなラーメン屋さんでとんこつラーメンを食べた。

いや~おいしかった。万一死ぬにしたっておなかがすいたまま死んだら絶対最後の言葉は○○が食べたいになってしまうと思ったのもある。

体が温まったのでまた歩き出した。バスが動いていることをおまわりさんが教えてくれたのでバス停まで歩いていき待っていた。隣で震えていた人にお菓子をあげて話していたら私と同じビルから逃げてきたことがわかった。私は8階、彼女は35階にいたと言う。

私よりも怖かっただろうと思った。埋立地を抜けてほっとし、怖さを共感できる人に出会ったからか、話しながら二人でぼろぼろないてしまった。彼女はヘルスで運動したあとお風呂に入っていたそうだ。湯船のお湯が台風の海の波のようになっていた。ロッカーの荷物を取りに行かれず、床を裸のままで転がりながら服があるところに行って着替えた。携帯も置いたまま逃げたため家族の誰にも連絡が取れないと言っていた。

そうしたら空が明るくなった。
何かが爆発したみたいだ・・と見ていたらまたオレンジ色の雲のような爆発が見えた。後でわかったが市原のコンビナートの爆発だった。
日本に来ているのに、一瞬「北朝鮮が攻めてきた?」なんてよぎってしまった。

いつ来るかわからないバスを待ちながら何度も揺れを感じたが、生きてここまで来たからなんとか帰ってみせる!と思った。このときは「何があっても生き延びてみせる!」と言った、スカーレットオハラの心境だった。

行かれるところまでバスで行き、明るいうちにさらに行かれるところまで行かないと夜は危ないし寒くなる。ようやく家の沿線の駅にたどり着いたが電車は動いてないし駅にも入れないようになっていた。ここから歩くのは止めようと思い、近くの友人宅に公衆電話で連絡したら、ご主人が帰れなくなってて一人は不安だからぜひ来て!と歓迎してもらった。本当にありがたかった。

妹からのメールで父が無事であることがわかったので私も友人宅で電車が動くまで待つから・・と連絡した。

友人宅で手足をあらい、テレビを見てびっくりした。

この世のものとは思えない光景だった・・・・

お茶を飲みながら状況を友人に話したが、安心したのかおお泣きしてしまった。友人も泣いていた。

少し落ち着いてからこれまたおばあちゃんから聞いていた「電気が通っているうちにご飯を炊いておくこと」「やかんに水を汲んでおくこと」「ポットにお湯を一杯にしてくこと」「お風呂に水を張っておくこと(火災・水洗トイレに必要)」と友人と実行し、親族全部におばあちゃんの教えとしてメールで送った。

今もかなり強烈なストレスを感じているようで珍しく人に会いたくない。電車に乗りたくない。

今週人に会いに行く予定は全部キャンセルした。

一瞬ですべてを失った人たちを見て、実家においてある捨てるに捨てられないものに対する未練がなくなり、今朝からごみ袋にどんどんつめている。
明日はなにが起こるかわからないんだ。

身辺をきれいにしておこう。これからはものは増やさない生活をして行こう。

本当に死ぬかもしれない恐怖感を味わったら自殺なんて考えることはできなくなるだろう。死にたいなんて軽々しくいえなくなるだろう。

もう二度と経験したくないけど、生きてるのではない、生かされてる自分を実感させられた貴重な体験だった。

エッセイを書いてる編集者から「次回は韓国の話ではなく、この被災体験を『命』と言う題名でお願いします」と言われたがまだそこまで意識が行かないよーーーー。

逃げるときには物は持っていかれない。
今日うちに来てくれた友人に「これからは食べ物以外にはお金はかけないことにする!」と宣言をして笑われた。


まだ今も大変な状況にいる方々がはやく団欒のときをもてますように。


この状況下で暴動も起こさず凛として行動している日本人を誇らしく思う。



心から    
            

           がんばれニッポン!!
………
10年経った今でも歩道橋の下をダンプが通った時のような微妙な揺れ、吊り橋などでも気分が悪くなります。えーん
もっと大変な想いをした方々がたくさんいますから生きていただけで感謝する日です。